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2021/12/30

「鹿内さんに『できるのか?』と聞かれましたけど、『できるもなにも、やったら目玉になるんじゃないですか?』って(笑)。その時も『面白い!』と言ってくれましたね。衛星中継をしたら、相当な予算が掛かるんですよ。金額は想像に任せますけど」

 春の改編一発目の4月3日にはロンドンからフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド、4月10日にはニューヨークからボン・ジョヴィが歌唱した。しかし、3週目で早くも交渉が難航した。

ボン・ジョヴィ ©文藝春秋

「ティナ・ターナーを追っ掛けていましたけど、正式なオーケーがなかなか取れない。西ドイツにいると聞いて、すぐにスタッフを1人飛ばしました。でも、断られるかもしれない。ダメなら3週目でもう穴が開いてしまう。参ってしまいましたね」

ティナ・ターナー ©文藝春秋

「1000万円をここに積んだら、話してやるよ」

 その頃、フランク・シナトラが11年ぶりに来日し、日本武道館公演やディナーショーを行なう予定になっていた。疋田氏は、TBSの名物プロデューサーでシナトラと太いパイプを持つ渡辺正文氏への接触を試みた。

 目玉の大きさから“ギョロナベ”の異名を持つ渡辺氏は1972年、『東京音楽祭』を開催。フリオ・イグレシアスなど世界のアーティストを集結させ、その名を業界に轟かせていた。翌々年にはロサンゼルスに渡ってシナトラを口説き、特別審査員としての招聘に成功していた。

 疋田氏はTBSへ出向き、シナトラの出演を懇願した。すると、ギョロナベ氏は事もなげに「1000万円をここに積んだら、話してやるよ」と呟いた。「俺だって、材料がないとフランクを口説けない。わかるだろ?」と言われ、疋田氏は「やっぱりそうですよね」と退散せざるを得なかった。

 河田町の会社に戻り、落胆しながら廊下を歩いていると、成り行きを心配していた鹿内氏に出くわした。「どうなった?」と尋ねられると、疋田氏は「もう話になりませんよ。1000万円をキャッシュで積めって言うんですもん」と諦めの表情を浮かべた。ところが次の瞬間、疋田氏は思わぬ言葉に耳を疑った。

 1000万持ってきゃいいじゃないかよ――。 

鹿内春雄氏 ©文藝春秋

「驚きましたね。オーナーだからすぐ判断を下せたんでしょうけど、普通そんなこと言えないですよ。1人で決めて上手くいかなければ、責任問題にもなります。決断力も凄いし、覚悟が違いますよね」

「お前、面白いヤツだな。気に入った」とシナトラに繋いでくれた

 疋田氏は再びギョロナベ氏の元を訪れた。ギョロナベ氏はその目をさらに大きく見開いた。そして、「……おまえ、面白いヤツだな。気に入った!」と高笑いし、シナトラに繋いでくれた。

フランク・シナトラ ©文藝春秋

「それで急遽、シナトラにスタジオ出演して頂けるようになったんですよ。その後、ティナ・ターナーもオーケーになりました。放送4日前くらいだったかな。嬉しい悲鳴ですけど、今度は予算がとんでもないことになる。2人合わせたら出演料や衛星中継費などで5000万円以上のお金が飛ぶことになります。鹿内さんに相談したら、『おまえの番組だろ』と背中を押してくれました。もうやっちゃえ! と覚悟を決めて、2人一緒に出てもらったら日本だけでなく、世界で話題になったんですよ。アメリカでも(シナトラとティナ・ターナーの共演は)考えられないことですからね」