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途中でコントを辞めて、『20出てる! 20出てる!』って大騒ぎ

 大晦日、コント55号は浅草の松竹演芸場に約300人の観客を集め、公開生放送を行なった。日本テレビは独自調査を企業に依頼し、舞台上手のモニターで紅白とコント55号の視聴率を折れ線グラフで現した。

「その時はね、20%行ったりしてました。お客さんが『よお~! やった~!!』と拍手して、紅白の裏で歴史的な瞬間だと喜んでくれて。僕たちも途中でコントをやめて、『20出てる! 20出てる!』って大騒ぎしましたよ。年明けに(ビデオリサーチの)結果を聞いたら、5%くらいだったっていう(笑)」

©️文藝春秋 撮影・宮崎慎之輔

 番組では欽ちゃんの電話で出前を運んできた寿司屋もいれば、近所の住人がお菓子を差し入れに来る場面もあった。さらには、鳳啓助が乱入したという記録も残っている。

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「何をしたか全然覚えてない。二郎さんとコントやっていれば楽しいし、嫌なことはないんです。ただ、70%の裏で5%っていうね。誰も見てない。とても侘しいというか、寂しいというか。だから、1年しかやってないでしょう。……3年もやってるの? 記憶から消したかったんでしょうね(笑)」

 当時、視聴率調査は2社が行なっていた。1975年の『なんてことするの!?』はビデオリサーチ社では6.4%だったが、ニールセン社では9.5%を獲得。紅白の裏で3%も取れば民放1位の時代に快挙を達成していた。

1975年12月31日、朝日新聞のテレビ欄

もう紅白の出演依頼が来ることないと思ったら気持ちが楽に

「え? そうなの? ……早く言ってよ(笑)。だから、3年も続けたんだ。頼まれた時は番組にあまり乗り気ではなかったし、もう紅白には呼ばれないやと思ったね。でも、スッキリしたの。(紅白の応援出演が)決まった時は嬉しいけど、決まらない時は寂しい。1年の最後にね、その年の自分の出来を決められているような気分があった。そこから解放されたんだと気持ちを整理しまして。もう、どんなに頑張っても(出演依頼が)来ることないと思ったから、結構それからすごい楽になりましたよ」

©️文藝春秋 撮影・宮崎慎之輔

 2年目、3年目は視聴率が下落。1978年、日本テレビは紅白の裏に『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』で対抗したが、翌年は再び萩本に依頼が来る。その番組が国民的人気を呼ぶとは、まだ誰も知らなかった――。(#2へつづく

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