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初陣で「新しい風」にはなれず
「自民党のスキャンダルにはうんざりしている。しかし、将来は二大政党による政権交代の時代になる。その一方は自民党だ。二世でも官僚でもない新しさが必要と考え、立候補を決意した」(93年7月5日付 中国新聞)
地盤(後援会組織)、看板(知名度)、かばん(カネ)の「三バン」を受け継ぐ世襲議員ではなく、官僚上がりでもない。そうした自らの経歴を自民党の新しい風として有権者に訴えた。
だが、結果は落選。国政では、初陣での当選とはならなかった。
一方で、祖父、父とも衆院議員で、克行と同じ選挙区でもう1人の党公認の新人として立候補した岸田は初当選を果たしていた。
この落選体験は、克行の政治人生に暗い影を落とす。将来、岸田が率いることになる「宏池会」(現岸田派)が主流を占める党県連に対して、屈折した思いを持つようになっていく。また、党県連の頭越しに党本部が公認候補に決めたことで、克行と党県連との関係はぎくしゃくした。その後も、こうした関係は解消されなかったという。
克行の再挑戦の場となったのは、政治改革の名の下、小選挙区制で初めて実施された96年の衆院選。旧広島1区から分かれて設置された広島3区で立ち、初当選を果たした。自民党の当選同期には後に総理大臣となる菅義偉がいた。初登院した克行は「33歳の若さをバネに、日本の将来に向けた大改革の先頭に立つのが目標。親しみやすく、さわやかで緊張感のある政治家になりたい」と抱負を語った。