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「今年もとくに例年と変わりません。ケガはしちゃいましたけど、やることは変わらずにここまで来られましたから……1日1日、うまくなるためにやっていくというのは今年も何も変わらない。もちろん試合に出続けて結果を出しながら、というのが一番なのかもしれませんけど、個人的には練習でも試合でも気持ちは変わりませんでした。例年は試合の中でどうやったらうまくなれるかを探していたけど、今年は練習の中でそれを探してきた。ケガをしたのでやれることは限られましたけど、その中でもうまくなる方法を1日1日、探しながらやってきたんです。僕の場合はうまくなったと実感できるのは練習のときのほうが多いので、ファームでもそれなりに勉強することはたくさんありましたし、今年もうまくなったんじゃないかなと思ってます」

 大谷の1軍初登板は7月12日。それも万全とは程遠い中、球数を限定した先発という異例の“1軍調整”。そこから8月31日の64球、9月12日の78球、9月21日の108球と、オープン戦のような段階を経て、10月4日、リミッターを外した状態の大谷がマウンドへ上がった。今シーズンの本拠地最終戦が大谷にとってのいわば開幕戦。いつしか既成事実と化したメジャー移籍を前提にファンは感傷に浸り、メジャーのスカウトがネット裏の最前列に陣取って、それでも大谷は何も語らないという、摩訶不思議なお別れの舞台ができあがったのだ。しかも栗山英樹監督が「夢があるよね」と思い描き、ずっと心の中で温めてきた“4番、ピッチャー、大谷”として──。

自分がどんな選手になるのかなという楽しみ

 正直、その光景に違和感はなかった。

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 ピッチャーの大谷が160㎞台のストレートとキレキレのスライダー、140㎞台のフォークを織り交ぜて三振の山を築き、完封してみせれば、バッターの大谷はバファローズの金子千尋から先制点のきっかけとなるセンター前ヒットを放つ。まさに二刀流の集大成と言っていいフィナーレだったのだが、大谷の心は満たされない。

「右足首の痛みは春先に比べればだいぶ減ってきましたけど、まだ100%ではないので、不安がある中での思い切ったプレーはなかなか難しいと思います。そうは言っても、100を求めたくなるのが選手だと思うので、そことのギャップというか、できないけどやっぱりやりたいよなというところの気持ちが強くて……札幌での最終戦に関しては結果はよかったんですけど、内容からいったら厳しいと思いました。全体的に、投げていて気持ちよくなかったですし、自分の思い描いている通りのものがなかなか出せなかった。今年を総括するような感じだったかなと思います」

 気持ちよく投げられず、思い描いていたボールが投げられなくても、バファローズの打線は大谷を捉えられない。打たれたヒットは2本だけの完封だったというのに、それでも喜べないあたり、大谷はもはや1人だけ、別の次元で野球をやっていると言っていい。だとするならば、栗山監督が言うところのファイターズ大学4年、大学院1年、あわせて5年の“大学生活”はもう卒業ということになるはずだ。

「卒業ですか? どうなんですかね。それは先生に聞かなきゃ、わかんない(笑)」

栗山英樹監督 ©文藝春秋

 “先生”が万全を待たず、異例の球数制限で実戦復帰を急がせたのは、大谷のメジャー挑戦がこのオフになったとしても不安のない状態で送り出してあげたいという親心があったからだ。栗山“先生”が言う。

「これでもギリギリだったでしょ。あのスタートが遅れてたら、ここまで来られずに終わっちゃったと思う。いくらいいピッチャーでも、1軍で投げてみないと自分のボールがどうかなんてわからないし、少なくとも先発ピッチャーとして機能するところまでは持っていってあげたかったんだ。痛みがぶり返すのを怖がって、翔平にスイッチが入ってないのがわかったからね」