何か、エンゼルスに縁みたいなものを感じて
走らせる前に、まず歩かせる──。
エンゼルスのビリー・エプラーGMが発したこの言葉が、すべてを物語っていた。
大谷翔平は、メジャー30球団の中からエンゼルスを選んだ。それが下馬評に上がっていないチームだったから、なぜこのチームを選んだのかと意外に受け取る声があちこちから聞こえてきた。しかし、考えてみれば不思議でも何でもない。そもそも大谷にはどのチームへ行きたいという強い希望もなければ、どこへ行かなければならないというしがらみもなかった。メジャーへの憧れは、子どもの頃に観たあのチーム、あの選手といった類のものではなく、世界一レベルの高いリーグで野球をやりたいという想いから生まれたものだ。
そして、高校を卒業して5年というタイミングで自らの舞台をメジャーに移す決断を下したのは、もっと野球がうまくなりたいという気持ちがあったからに他ならない。大谷は彼自身が思い描く世界一のプレイヤーになるために、まずこの5年間、NPBで栗山英樹監督から与えられた宿題を次々とクリアし、岸孝之、柳田悠岐などの好敵手によって経験値を上げてきた。まだまだ成長過程にあると自覚していたのにもかかわらず、そのポテンシャルの高さゆえに、彼は日本ではあっという間に突出した存在になってしまった。となれば、プロ6年目からは次のステージで刺激を受けたいと考えたとしても合点がいく。
これまでMLBに挑戦した日本人選手たちは、NPBで何かを成し遂げ、日本の野球に物足りなさを覚えて、メジャーに戦いの場を移してきた。しかし大谷はそうではない。大谷翔平というプレイヤーが世界一の山の頂に立つためにどのルートを登ればいいのか──彼が考えているのはそのことだけだ。実際、この5年間で周りが認めるだけの何かを成し遂げたと言い切れるのは、ピッチャーとして三冠を獲得したプロ3年目とチームを日本一に導き、投打ともにベストナインに選ばれてMVPを獲得したプロ4年目だけだった。しかし大谷が見ていた景色はそうではない。ケガに泣かされ、結果という観点から見れば不本意だったはずのプロ5年目も、ケガというカテゴリーの学びができた、価値あるシーズンだった。2017年がどんなシーズンであったとしても、大谷は、日本で学ぶのは5年と決めていたのである。栗山監督が、ファイターズ大学で4年、大学院で1年と話していたのも、大谷のそんな覚悟を感じていたからだ。
そういう大谷のメンタリティを、メジャーのほとんどの球団は理解し切れていなかった。大谷はカネでは動かない、大谷は自分をまだ未完成な選手だと思っているといった類の情報が入ってきても、どこかでそんなはずはない、カネはあるに越したことはないし、すぐにでもメジャーで活躍できたほうがいいに決まっているという発想から抜け出せなかった。大谷を獲りたいと本気で考えていた球団ほど、その傾向が強かったように思う。大谷は、メジャー1年目からローテーションに入れてもらう約束やら、バッターとして何打席立たせるという見通しやらを求めていたわけではない。