この作戦の前には数人の各界の実力者が集まって下準備をして下さった。「できるだけ物静かに目立たなく」すべてが動くように、ということである。
大体予想通りだった。開店直後の大書店は客も2、30人という程度で、それが広い売場に散らばってしまうと、ほとんど目立たない。他に客ではないサラリーマン風の人たちがいたのは皇宮警察や渋谷署などの警察官で、あとは当時まだ元気だった夫の三浦朱門と私だけである。
予定通りお着きになり、待っていたエレベーターに乗り込まれて、売場にお入りになった。店員さんたちは知っていたと思うが、手を止めて深々とお辞儀などしないように頼んであった。すべて空気のように静かなことが皇后さまにとってお楽だろう、と思ったからである。
夫と私は、皇后さまがお立ちになっている書棚から10メートル以上離れた所で立ち読みをすることにした。あくまで、自然にまばらに人がいるという店内の感じにしておくのが目的である。
私が恐れていた唯一の心配は、途中で誰か若い人が気づき、メールやツイッターで「皇后さんが渋谷にいるぞ。すぐ来い」などと流されたら困るということだった。しかし幸運なことにこうした人種は開店早々の書店には来ないし、呼ばれた友人も本屋の場所など知らないから集まりにくいだろう。
開店後の書店は日常的な空気だが、まだ静かだった。後でマスコミから、皇后さまはどういう本の棚を見ていらしたか、と聞かれたが、それはプライバシーに関わることだから、と答えなかった。本当は知らなかったのである。
途中赤ちゃんを背負ったお母さんが明らかに売場の皇后さまに気づいて、一瞬ひるんだが、彼女はそれだけで遠ざかった。別に遠ざからなくても皇后さまはお気になさらなかっただろうが、優しさを知っている人だった。もう一人男性の学生らしい人がぎょっとした顔をしたが、彼も数秒後には視界から消えたところをみると、どこか遠くの書棚の間に移動したのだろう。
約1時間とは言っても、書店での1時間は実に短いものだった。いつも周囲に迷惑をかけることを心配なさる皇后さまは、書店の小さな応接室にお引きあげになり、そこで小休止された。
書店の社長と私は、大体そういう流れで打ち合わせていたのである。皇后さまは、時間がなくて、児童図書と文房具の売場をご覧になれなかったことが少しお心残りだったとおっしゃったので、次にはもう少しお時間を頂いて、最近の文房具もご覧になれるようにしよう、と私は思っていた。
書店では、そこで皇后さまとお相伴の私にコーヒーを出して下さった。これもあらかじめ約束ができていたことである。夢中で本を見ていると疲れるし、喉も渇くし、手も汚れている。ご休息の時、「お手拭きと、コーヒーを一杯ごちそうして下さいませんか」と私は社長に頼んであった。
「コーヒーの味を気になさらないで下さい。まずくても喉が潤うだけでもそういう時の飲み物はほっとするものですから」