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美智子さまが「本屋さんをゆっくり歩いてみたい」と…決行された朝10時の“渋谷ジュンク堂大作戦”

『百歳までにしたいこと』より #1

2022/05/10

source : 文春文庫

genre : ライフ, 社会, 皇室, ライフスタイル, 読書

 そのお願い通りのコーヒーであった。私は思わず言った。

「まずいコーヒーをお願いしてましたのに、おいしいコーヒーじゃありませんか」

 皇后さまが変な顔をなさったとも思わないが、私は「まずいコーヒー」が登場するはずの経緯をお話しし、皇后さまは笑って下さった。舞台裏の話というものは総じて、寛大に受け取られるものである。

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 私は葉山の御用邸から20~30キロ離れた三浦半島の南端に近いキャベツ畑の中に週末の家を持っていて、時々、両陛下もお立ち寄り下さる。お目にかかれば必ず話題に出るのは、近隣の台地で栽培しているキャベツ、或いは今年の大根の値段である。今の農村は総じてお金持ちだが、それでも私は顔見知りの農家の方に会うと、すぐキャベツや大根の値段の話をする。その結果得た知識を、両陛下にもお伝えしたくなる。

「去年ハワイ旅行をした方たちも、今年、野菜のお値段が高ければヨーロッパ旅行にいらっしゃるんだそうです」

 そういうご報告をしたいのである。

農家の人とキャベツや大根の値段について話して得た知識を、両陛下にお伝えしたくなるという曽野綾子さん ©文藝春秋

 それから最近の農家にある大根洗い機の構造をお話ししたこともある。陛下は自動車の「自動洗車機」の構造などご覧になったこともないと思うが、私は短時間、自動車の「自動洗車機」と大根の洗い機の構造の一致点をお話しする。誰か知らないが、最初に「自動洗い」の装置を考えついた人は、ほとんどどんな「洗い機」でも作れるようになった。「議事堂を洗え」などと言われると困るが、大仏さまだって機械が大きければ洗えるはずだ。子供だって、大人だって立ったまま洗える。

 農村の人たちは、長い年月、暑さ寒さに耐えて、厳しい農作業を続けて来た。その原則は変わらないのだが、それでも土つきの大根を、両側で廻っているタワシというべきか、ブラシというべきかわからない洗浄装置の中に突っ込むと、大根1本あたり1分以内で泥が落ちるような機械はできた。大根1本1本を冷たい思いをしながらタワシで洗っていた時代よりは楽になったというべきだろう。私はこうした自分にも理解できる程度の機械化が大好きだし、他人の場合でも幸福の実感を感じられる性格であった。そして勝手に、農家の人たちの労働が少しでも楽になったとお聞きになれば、両陛下もそれを喜んで下さるだろうとも思うのである。

時々農家の人たちとお話されることもあるという上皇ご夫妻。 ©文藝春秋

 両陛下のご退位以後のことは、拝察する方法もないが、私が普段から見聞きしている世界のことなら、お目にかけたいし、話もお聞き頂きたいと思う。葉山の御用邸にご滞在の間に、私の家で夕食を召し上がって下さることもある。「東京の料亭の人を呼ぶの?」と聞く人もいるが、すべて私の手料理だ。それで初めて両陛下は、今、庶民は何を食べているかお感じになれるだろう。我が家で作った家庭料理に大根が加われば、自然に近隣の農家が、今年は大根でお金が儲かったかどうかにも話が及ぶ。両陛下は村をお通りになる時、時々お車を停めて作業中の方たちとお話をなさることもあると村の人たちは喜んでいる。

 昔、霞が関でその頃はまだ元気いっぱいだった小松左京氏と会ったことがある。小松氏は、短時間の立ち話だったにもかかわらず、つい先日天皇陛下にお会いした話をしてくれた。その言葉の端々には、自分が会って楽しかった人物としての陛下が、生き生きと映し出されていた。