「かんなみとは言わずに『パーク』と呼んでいた」
店主(50)が話の輪に入ってきてくれ、「センタープール(尼崎ボートレース場)があって、ここらはバクチ場でしょ。昔は『勝った金でパークへ行く』って聞きましたけどねえ」と。
パーク?
「昔の人は、かんなみとは言わずに、『パーク』って呼んでましたよ」
かつて、かんなみ新地のすぐ横に「パーク座」という名の芝居小屋があったかららしい。
「でも、今、バクチ場に来ているのはほぼほぼお年寄りだから、そういう話も聞かなくなったね」
そうかー。で、この辺りはどういう土地柄ですか? 普通に住宅地みたいですけど。
「臨海部が化学、金属工業の阪神工業地帯でしょ。この辺りはその受け皿で、昔は下請け工場が多かったですね。それに“人夫出し”ってわかります? 独身アパートやドヤがあって、日雇い労働者が住んでいて。早朝からその日の仕事を求める人がずらっと道路に立ち、斡旋者が集めに来る。『はい、何人』って、トラックの荷台に乗せて行ってましたよ」
つまり、西成や山谷みたいな寄せ場?
「そう。震災のちょっと後まで、そんな感じが残ってましたねえ」
とすると、「70年の歴史」のかんなみ新地は、戦後、東側にヤミ市、西側に労働者街のある場所に誕生したのだと腑に落ちる。
10年前の火事「消火しなければ全棟が燃えてしまうのに…」
「やっぱり人口密度がめちゃ高くて、男の人いっぱいいて。かんなみは必要とされて出来たところやったんや」と私が迎合発言をすると、1人で杯を傾けていた隣のテーブルの70歳くらいの男性が、うなるように一言。
「売春はどんな場合でもあかんで」
店の中が、一瞬し~んとなった。
翌日、市議会議員の林久博さん(57)に、かんなみ新地から数十メートルの地にある尼崎市立竹谷小学校のPTA会長だった9年前、「市の危機管理課へ(かんなみ新地の閉鎖を)陳情に行っていた」と聞く。かんなみ新地が「子どもたちに見せられない場所」であり続けたことは論を俟たない。
ずっと地元に暮らしてきた林さんは実家が喫茶店だった。コーヒーを飲みに来る「曳き子のおばちゃん」が、「昨日の私の取り分が8万円あってん」と、くしゃくしゃの万札をテーブルに並べていた光景をありありと覚えているという。消防団に入っていて、かんなみ新地が火事になった約10年前には、消火活動を手伝った。その時、「もし、このまま消火しないで1時間経てば、全棟が燃えてしまうのにと複雑な思いだった」と心の内を明かしてくれ、このたびの閉鎖を「やっとですよ、やっと」と感慨深げだった。
一方、20代から40代までたびたびかんなみ新地の客だった、木村徹さん(仮名、57)は、仕組みを語ってくれた。