文春オンライン

海外で賞賛、日本で批判…河瀨直美の評価はなぜ国内外でズレているのだろうか

2022/06/05
note

河瀨作品の「加害性」

 河瀨の身近で、もっとも彼女の名前を呼びつづけた、すなわち存在を承認しつづけた存在が、育ての親である「おばあちゃん」こと河瀨宇乃さんだったことは間違いないだろう。

 河瀨は、生まれてすぐに実父と生き別れ、母親とも幼い頃に離別したため、母方の祖母の姉であった宇乃さんの養女として育てられた。

 『につつまれて』とその続篇ともいえる『きゃからばあ』(2001年)、自身の出産を題材とした『垂乳女』(2006年)、そして宇乃さんの死を描いた『塵』(2012年)などの作品では、親に棄てられた自身のやりきれない心情や苦しみを、宇乃さんに感情的に吐露する河瀨の姿が確認できる。

ADVERTISEMENT

 そのやりきれなさや苦しみは、『玄牝 -げんぴん-』(2010年)にも通底している。この映画は、疑似科学的で危険といわれる自然分娩を不用意にとりあげているとして批判を浴びたが、それまでの河瀨作品の流れのなかに位置づけると、彼女がなぜこの題材に惹かれたかがよくわかる。ここで問われているのは、まさしく「私」が生まれたことの意味と、その「私」を取り巻く世界との関係であるからだ。

 金原由佳は、河瀨へのインタビューのなかで、「(河瀨作品に登場する女性たちは)世の一般的な価値観からは理解されず、批判を受けるようなヒロイン像も少なくありません。社会的な通念から外れてしまう瞬間や選択は実際にあるはずなのに、スクリーンにあまり写されず、黙殺されてきた。そんな女性の欲求を表に出してきたことをどうとらえていますか?」と訊いている。これに対して、河瀨は「男性のすごく大切にしているものを自らの手で壊しちゃう、日常そのものを破壊する衝動」をもった『火垂』(2000年)の主人公に触れつつ、こう応えている。

「女性の中にも隠し通せない欲求、欲望があって、それを秘密裡に進める場合もあるけれど、自分の映画の中では必ずそれが第三者に露呈してしまい、その先の日常をどう生きていくのかを描いています」(「madameFIGARO.jp」2019年12月21日 河瀨直美監督インタビュー〈前編〉「世界の映画祭で注目される、河瀨直美監督作をいま一度。」)。

 これらを踏まえると、「週刊文春」が報じたような河瀨の行動は、「私」を承認してほしいという彼女の「欲求、欲望」=承認されないことへの不安が、暴力的なかたちで「第三者に露呈してしま」った結果とも考えられる。