1ページ目から読む
2/5ページ目

 日本の映画批評において、河瀨の作品が積極的に語られづらい要因として、彼女自身がいわゆるシネフィル的な文脈の外にいる存在であることも大きい。実際、河瀨は高校時代まではバスケットボールに打ち込むスポーツ少女であり、大阪写真専門学校に入学してからも、ゴダールを愛好するような同級生たちの会話にはついていけなかったという。筆者も河瀨の特集上映のトークイベントで聞き手を務めた際、客席から投げかけられた「影響を受けた監督は?」という問いに、頑なに応えようとしなかった河瀨の姿が印象に残っている。

©️文藝春秋

「私を認識してほしい」という強烈な意思の発露

 国内外での評価のちがいについて、河瀨自身はつぎのように語っている。

「(映画に対して)個人的な話をされる方は海外、とくにヨーロッパに多いですね。日本人の場合は、あまり個人的な話をせず、客観的に批評する人が多い印象があります。映画史的にどうであるとか、過去の映画作家と比較してどうだろうとか。そう言われると、私としては『そこから始まっていないんだけどなあ』とズレを感じてしまいますね」(筆者によるインタビュー、「NFAJニューズレター」2020年1月-3月号)

ADVERTISEMENT

 この場合の「個人的な話」とは、映画に対する観客の側の同調性と言い換えることができるだろう。河瀨作品への批判として、「自己愛」「ナルシシズム」という表現がしばしばもちいられるが、より正確には「じぶんを認識してほしい」という強烈な意思の発露がそこにはあり、それを観客がどう受け止めるか——つまり、「私」(河瀨)と「私たち」(観客)との関係を問いかけてくるところに河瀨作品の特色がある。

 たとえば、初期のドキュメンタリー『かたつもり』(1994年)には、河瀨が空や雲や育ての親である「おばあちゃん」にキャメラを向けながら、「空!」「雲!」「おばあちゃん!」などと叫ぶ一連のショットがある。この場面について、河瀨はこう語っている。

「思えば私は子どもの頃から、この世界の歯車のひとつとして人生を終えることがたまらなく寂しくて、『河瀨直美』という名前を呼んでほしい、私を認識してほしい、と強く感じていました。それを埋めてくれたのが映画だったんです」(前掲インタビュー)

 実際、河瀨が渋谷のまちを徘徊しながら出会ったひとびとと所持品を交換していくというプライベートビデオ作品『風の記憶』(1995年)では、「私がここにいることをわかってほしい」「私を名前で呼んでほしい」というモノローグが挿入される。

 河瀨にとって、映画は自身の存在を肯定することであり、この世界に生きつづける意味そのものなのである。そして、そこには同時に、自身が承認されないことへの不安がつねに見え隠れしている。