十三駅前で国道176号を渡った先の西側も、まだまだ繁華街が続いている。庶民的な飲食店からちょっと怪しげなオトナのお店から、昔ながらのスナックから……。繁華街を抜けて淀川沿いに向かって南に進むと、ちょっとした大通りを渡った先はラブホテルが集まっている。上品なイメージをもって十三駅にやってきたら、驚くに違いない。十三とはそういう歓楽街なのだ。
歓楽街としての十三は、駅の反対側、東口に出てもほとんど同じである。西口よりはいくらか広いが、それでも小さな駅前から2本のアーケード商店街が伸びていて、隙間を埋めるようにして路地裏の飲み屋街。マルーンの輝く阪急電車の要衝の駅は、徹底的に庶民のために作られた、そんな町の駅なのである。
歓楽街だけじゃない「十三」の“顔”
こう書くと、十三ってやっぱり猥雑な歓楽街なんですね、で終わってしまいそうだ。しかし実際にはそれだけではなく、ライブハウスやミニシアターなどが集まるサブカルタウンとしての一面も持っているという。
第七藝術劇場は知る人ぞ知るミニシアターらしいし、ウルフルズがインディーズ時代に活動していたライブハウスも十三に。さらに、ねぎ焼きという関西人以外にはあまり馴染みのない大阪のソウルフードも十三が発祥。このように、梅田から淀川を挟んだ先の衛星歓楽街には、大阪の庶民文化の粋が詰まっているといっていい。
「それを“じゅうそう”と読むようになったのはますますナゾではあるが…」
いったい、いつから十三はそういった町になったのだろうか。
十三という名の由来は諸説があるが、いちばん有力なのは淀川の上流から十三番目の“渡し”があったからだとか。それを“じゅうそう”と読むようになったのはますますナゾではあるが、“じゅうさん”がなまったかなにかしたのだろう。
そしてこの十三の渡し、本当は淀川ではなく中津川という川にあった。
明治の中頃まで、淀川の流れはいまとまったく異なっていた。淀川の本流は市街地の中を貫くように南に流れており(いまの大川・堂島川・安治川)、支流の中津川がその北側を蛇行して流れていた。
そのおかげで淀川が増水するたびに大阪の町は洪水の危機にさらされた。そこで淀川の大改修が行われ、1909年に現在の流路の淀川が完成したのだ。
十三の渡しは近代以前のものなので、あったのは中津川。ちょうど十三駅前の繁華街のあたりを流れていた。逆に渡しの渡船場はいまでは淀川の底に沈んでいる。つまり、明治時代の十三は、川が流れる牧歌的な農村地帯に過ぎなかった、というわけだ。とうぜん、淀川改修以前に阪急電車は来ていない。