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「死んじゃだめだ、生きてまっちゃんにまた会おう」戦地へ行く兵士の心を慰めた、“元祖会いに行けるアイドル”が破ったタブーとは

『元祖アイドル「明日待子」がいた時代』より#1

2022/08/10
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何が“明日待子万歳”事件を引き起こしたのか

 事件当日の演目の批評も『キネマ旬報』(昭和11年5月21日号)に掲載されていた。執筆者は評論家で映画監督の岸松雄である。一部抜粋してみよう。

 結構・結構・結構 岸 松雄

 

 いつだったか齋藤豊吉さんとお茶を飲みながら、ムーランあたりでも三題噺みたいなものを演つたら面白かろう、と話し合つたことがある。それが幾分容れられてかどうか、とにかくこんどのムーランは、「男・男・男」「女・女・女」「兒・兒・兒」そしてヴァラエティは「流儀!流儀!流儀!」である。

 

 1 「男・男・男」1幕(蟲明兵衛作・演出)

 2 「女・女・女」1幕(齋藤豊吉作・演出)

 3 「兒・兒・兒」4景(上代利一作・演出)がいよいよ待子登場である。

 

 海の見える山の中腹の掛け茶屋を舞台に「春のめざめ」的な香気がただよう。(中略) 明日待子の澄夫、小柳ナナ子の閃吉、このふたりは「春爛漫」の時にもそう思つたが、芝居をしやうと意識し出したために以前の清新さを喪つてしまつた。このキザつぽい小生意気さは改めるべきだ。

 

 4 ヴァラエティ「流儀!流儀!流儀!」16齣(緒方勝構成・庸本晋史振付)

 

 こんどのヴァラエティで一番目についたのは踊り子たちをつとめて動員して、舞台一杯に踊らせていること。(中略)それから「一流」「二流」「三流」と分けて見せるのも何かしら踊り子の観客との間に親しみを増すものの如くで悪くない。ただこんどの場合でもあまりに流儀にとらわれて、いろいろな「流儀」を門前雀羅の如く陳べ立てたきらいがある。外面的体裁は一応ムーラン・ルージュのヴァラエティの型にはまつているが、この次には内面的なつながりを持たせた構成を望みたい。

 

 いろいろ文句は言つても他所の愚かしいレヴュウ小屋に呆れた眼からすれば、やはりM・Rの149回公演は「結構・結構・結構」と言わなければなるまい。(5月5日から14日 ムーラン・ルージュ新宿座)

 劇評を書いた岸は待子やナナ子に「清新を喪ってしまった」と、いわば、いつまでも真っ白なままでいてほしいというファンならではの願望をのぞかせるものの、結局はムーランの演目に倣い、「結構・結構・結構」と、合格点を出している。

 この評を読む限りにおいて、 とくに舞台の内容が彼らを刺激したものとは考えにくい。つまり、いつもと同じように、演目が進行しているなかで、「明日待子万歳事件」が突然起こっているのだ。

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 ムーラン側の動揺も戸惑いも一切考えず、彼らはあらかじめ練り上げた計画の下に決行し、覚悟して、「明日待子万歳」と叫んだのだろうか。憲兵が見張っていることも、最悪の処罰を受けることも承知のうえでの行動だったのだろうか。