待子は踊り子たちと舞台から降りてきて、おずおずと手を挙げた兵士たちに近づき、ひと言ひと言嚙みしめるように語りかけた。
「武運長久をお祈りいたします」
場内からは割れるような拍手が起こった。
「必ず、戻ってきてください。お待ちしています」
最後に、待子は絶対タブーとされた言葉を口に出した。国家のために命を捧げることが、戦場に赴く兵士たちの使命である。それを「必ず、戻ってきてください」とまっちゃん(明日待子の愛称)は言ってくれた。ふいに雷に打たれたようになって、兵士たちは目を大きく見開いた。
「そうだ、生きて帰ろう、死んじゃだめだ、生きてまっちゃんにまた会おう」
どこからか、皆の気持ちを代弁するような声が響いた。彼らの青白い頰にぱっと光が宿った。
「元祖会いに行けるアイドル」
待子が新宿の伝説の劇団、ムーラン・ルージュ新宿座で活躍していた時代は、日中戦争から太平洋戦争へと続く15年戦争という、日本の悲劇の時期に当たる。若い男性は根こそぎ徴兵され、銃後の女性たちは戦争を支援するために千人針を縫い、軍需工場に動員された。中国を相手に始まった戦争は南方にまで延び、収束への出口を見い出せないなか、国民の心は荒んでいった。誰もがほっとする一瞬の安らぎを渇望していた。
何も贅沢なもの、高尚なものである必要はない。ただ、欲しいのは手が届く慰安であり、不安を忘れさせてくれる笑いである。
ムーラン・ルージュ新宿座は昭和6年に開場し、昭和26年に閉館するまでの20年間、定員430人(昭和20年の空襲による焼失まで)の小屋で、庶民が望むものを次々と提供していった。軽演劇と称される芝居の脚本には権力への抵抗が隠され、踊り子たちのパワフルなレビューは、華美な服装や化粧をご法度とした“割烹着の一団”への反逆でもあった。
そのなかでムーランが人々に贈った最高のギフトはひとりの童顔のアイドル、明日待子である。待子は舞台ばかりか、映画に、ラジオに、カルピスの初代イメージガールにと活躍し、溌溂とした姿とともに、「希望を捨てないで生きていこう」と背中を押してくれた。
完璧な美貌を持っているわけではない、肉感的な魅力にはほど遠い小さな体......だが、彼女のその不完全さ、その隙が愛された。
何よりも、ファンにとって嬉しかったのは、まっちゃんは「元祖会いに行けるアイドル」だったことだ。銀幕のスター、田中絹代も原節子も高峰秀子もどんなに恋焦がれようが、スクリーンから飛び出してきてはくれない。所詮、手の届かない高嶺の花だ。
ムーランのセンターに立つ待子はどうだろう。会いたいと思えば、新宿の劇場に行けばいい。まっちゃんが舞台狭しと駆け回り、笑顔を振りまき、握手だって惜しみなく与えてくれるのだ。