鉄道の旅と割り切って駅から外に出ずに列車の待ち合わせのためだけに塩尻駅を使っていたら、塩尻がこれほどのワインの町などとは思いもよらなかったかもしれない。駅のホームのブドウ棚も、特急列車は基本的に使わない3・4番のりばのいちばん端っこだから気がつかないで素通りしてしまうこともありそうだ。やっぱり駅にやってきたら、改札を抜けて外に出て、少しでいいから回りを歩いてみることが大切なのである。
ブドウ以前はどんな町だった?
ともあれ、明治以来のブドウとワインの名産地、塩尻。では、ブドウ以前はどのような町だったのだろうか。この答えはシンプルで、中山道の宿場町である。
中山道が江戸時代のはじめに整備されたときは、諏訪湖畔の下諏訪から贄川まで、塩尻を経由せずに南側の山中を貫いていたそうだ。しかし、この道があまりに険しい山道だったために、塩尻を経由するルートに改められた。以後、塩尻は中山道の三十番目の宿場町として栄えてゆく。
同時に北に向かえば松本を経て糸魚川、南の山道を抜ければ三河という道筋の途中にもあり、それぞれから塩が運ばれる“塩の道”の要衝でもあった。
太平洋側から運ばれる塩は“表塩”、日本海側から運ばれる塩は“裏塩”などと呼ばれ、それぞれの終点にあたるのが塩尻の峠だったことから「塩尻」の名がついたのだとか。地名の由来には諸説あるものだが、なるほどと納得してしまう。
旧中山道を歩いてゆくと…
こうしてほんの少し歴史をたぐると、塩尻は古くから交通の要衝だったであろうことが実感できる。塩尻宿は塩尻駅や市街地よりもだいぶ東に離れた道筋にあり、旧中山道も駅の東側で線路を跨いで南西に向かう。
逆Y字型をしている塩尻駅の南側のデルタ部分と旧中山道の間に収まっているのは昭和電工塩尻事業所。諏訪湖周辺に精密機械工業が集まっているのと同じく、塩尻にもこういった工場が進出している。
旧中山道を歩いてゆくと、平出一里塚があって、その南には平出遺跡という遺跡が広がっている。東西約1km、南北300mにわたる広範囲の遺跡で、縄文時代から平安時代に至るまで人が暮らしていた痕跡が残っているのだという。 どうしてこのような場所に、と思わなくもないが、山に囲まれていて食物に困ることはなさそうだし、それでいて小さな平野になっていて川も流れているので過ごしやすい、ということなのだろう。もしかするとそんな時代から、東西南北に道筋が生まれて人々が行き交っていたのかもしれない。