事実、もし文春記事が世に出ることがなかったなら、鈴木は鉄壁の履歴書の持ち主だ。生まれも育ちも良い、いわばひとり娘のお嬢様で、学業面でも優秀な成績を残してきた。
学問や翻訳などを生業とする両親の元に生まれ、実家は鎌倉で、小中学校は清泉女学院、途中2年ほど父のサバティカルについてロンドンの私立女子校に学び、明治学院高校、慶應義塾大学、東大大学院へと進み、日本経済新聞社へ就職した。
少し不思議なのはただ一点、中高エスカレーター式のはずの清泉を、なぜ中学卒業で辞めて、明治学院高校へ移ったのかということだった。
「清泉の中高の校長が代わっちゃって。それまでは信仰する心や、勉学に対する情熱は大事だけど、服装はどうでもいいという寛容なシスターだったんですよ。清泉の小学校は靴下とかハンカチまで指定で、すごく厳しかったけれど、その6年を耐えられれば、中高は校則もめちゃくちゃ自由だったんです。ところがやっぱりそういう校長は立派で、ある程度の任期の後にポジションにしがみ付かずに、海外へ渡ってしまって。
その後に代わった校長はごく普通のシスターで、教頭や生徒指導の先生らの権力が強くなりました。ゴム抜きルーズはだめ、スーパールーズもよくないみたいに、どんどん理由もなく校則が厳しくなっていったんです」
渋谷へのアクセスを手に入れたくて。彼女が選んだ方法は……
納得できなかった鈴木は、反抗した。
「当時はコギャル全盛期だったから、10代を謳歌する自分のイメージは確固としてあったので、その邪魔をするところにはいられないと思って(笑)。私の母も元々あまり校則とかが好きじゃないタイプで、お茶の水女子中高で、制服のダサいベルトの廃止運動をしたそうです。だからそういうところは、血ですね(笑)。それで、校則が自由で伸び伸びとした校風の高校に行ったんです」
コギャルとして10代を謳歌するという、鈴木の確固たる自己イメージに、渋谷は欠かせない条件だった。
「渋谷に行くのに、清泉だと鎌倉から大船までしか定期がないから、渋谷まで往復で1500円くらいかかるんです。明学に通って品川まで定期があると、150円で渋谷まで行けるから、全然違います。だって10日間で1万5000円なんて、学生にとっては死活問題、それだけで月の収入超えちゃう感じじゃないですか。
だから渋谷へのアクセス権を手に入れるために遠くに行ったんです(笑)。制服がなくてゆるいってことで選ぶなら、神奈川の県立高校でもよかったんだけど、そうすると、ゆるやかな湘南の海を見てぼやぼやしてるうちに高校時代終わるな、と思って」