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作りたかった人物ドキュメンタリーと真逆の仕事をこなす日々

 私自身が取材したVTRの中にも、編集で「盛りに盛って」放送し、電話による抗議や苦情が寄せられたこともありました。今なら、同番組は毎週のようにSNS上で炎上騒ぎになっていたでしょう。それでも、いや、だからこそ、視聴率は向上していきました。チーフプロデューサーは、抗議や苦情に動揺する若手を鼓舞するためだったのでしょうか、「“悪名は無名に勝る”と言うんだよ」と、番組の方向性の正しさを説いていました。

 私が作りたかった人物ドキュメンタリーは「世の中には知られざるすごい人がいる」とか、「こんなにかっこいい生き方がある」といった方向、つまりポジティブに人間を捉えることでした。そして放送によって、観た人の心が前を向く方向に動いたり、何かの行動のきっかけになるようなドキュメンタリーを作りたい、と思っていたのです。

 ところが、やっていることは真逆でした。「世の中にはこんなに悪い奴がいる」とか、「こんなにダメな人間を懲らしめてやる」といったことを世に伝える番組のスタッフとして、寝る暇もないほどに働いていたのです。こんなことが我が身に降りかかったのは、自分が会社員だからでした。それでも、いつかまたドキュメンタリーを作るチャンスは来ると信じて、何とか日々の仕事をこなしていました。

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ドキュメンタリー映像作家の大島新氏 ©文藝春秋

コンペで選ばれていた企画がボツに

「あの企画を君にやらせることは出来なくなった」

 退社の引き金は、FNSドキュメンタリー大賞という枠で、私の企画が一度は通ったのに、紆余曲折を経てボツになったことでした。FNSドキュメンタリー大賞とは、フジテレビ系列の全国のテレビ局(28局)が、年に1本ドキュメンタリーを出品し、審査を行って大賞や特別賞を決めるという試みで、今も続いています。放送は深夜ですが、作り手にとっては候補作に選ばれるだけでも栄誉なことです。

 フジテレビでは、若手を中心に企画のコンペがありました。1999年のフジテレビの候補作には、私が提出したあるマイノリティ集団の若者たちを追う企画が選ばれ、取材のGOサインが出ました。ところがその決定のわずか2日後に、当時の部長に「あの企画を君にやらせることは出来なくなった」と告げられたのです。

 理由は、打ち切りが決まっていた『ウォンテッド‼』の後継番組のスタッフとして必要だから、ということでした。それも、ロケのディレクターではなく、3週に1本回ってくるスタジオの演出を担当させたい、という話でした。

 新番組のスタートは1999年の4月でしたので、私は入社5年目。そのキャリアでゴールデンタイムのスタジオ演出を担当するのは、「抜擢」と言われてもおかしくないポジションでした。しかしそれは、ドキュメンタリー制作を断念することと引き換えでした。