民放キー局の現状は充分わかっていた
部長には「もう大島は深夜で何か月もかけてドキュメンタリーを作るようなポジションではなく、ゴールデンのレギュラーで会社に貢献してほしい」と言われました。加えて、テレビ局員に必要な経済感覚の話も出ました。平たく言えば、深夜のドキュメンタリーは給料に見合っていない、ということです。
この時私は、部長が言っていることは正しく、ドキュメンタリーを作りたいと思っている私がこの会社にいる方が間違っている、と感じました。
実はその時までの4年間で、民放キー局のそうした現状は充分わかっていたのです。ドキュメンタリーを現場のディレクターとして作れるのは、若い時期の「経験値」として、せいぜい2~3本で、その後は違う形で会社に貢献しなければならない。
日常的にドキュメンタリーに携わるとしたら、プロデューサーになるしかなく、実際に現場で取材して制作を担当するのは制作会社のスタッフやフリーのディレクターでした。
今でも『ザ・ノンフィクション』や『情熱大陸』は、局内で制作しているのは1割程度、9割がたは外部制作です。(NHKと、民放でも地方局は事情が異なり、キャリアを積んでもディレクターを続ける人もいます)
森達也監督『A』の衝撃
レギュラー枠の局のプロデューサーは、企画の選定や番組のクオリティ管理など、重要な役割を務めますが、現場で取材をするわけではありません。
そして私は4年間で、制作会社所属やフリーの立場で、ドキュメンタリーを作り続けている何人もの先輩ディレクターたちの活躍を見てきました。映像ディレクターの中村裕さんもそうでしたし、約20年後に『ぼけますから、よろしくお願いします。』でご一緒することになる信友(のぶとも)直子さんもその1人でした。
そうした先輩ディレクターたちの仕事の中で、私にとって決定的だったのは、1998年に公開された森達也監督のドキュメンタリー映画『A』でした。当時のBOX東中野(現在のポレポレ東中野)で『A』を観たときの衝撃は忘れられません。大げさでなく、上映後に椅子から立ち上がれないほどでした。
入社した1995年から、テレビ局の内部でオウム報道の洪水の中にいた者として、オウム真理教を独自の視点で描いたことはとにかく驚きでした。教団の内側に入って撮った森さんのカメラには、たくさんの報道陣の姿が映っていました。
私はオウム取材の現場には行っていませんでしたが、スクリーンに映し出された報道陣を見て「これはおれだ」と思わずにいられませんでした。『A』については別の章で詳しく記しますが、私はフジテレビにいる限り、こうしたドキュメンタリーを作ることはできない、と思わずにはいられませんでした。