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「上級国民」という言葉が報道やネット上で多く用いられるようになったのは、2015年、デザイナーの佐野研二郎氏の東京五輪のエンブレムのデザインに盗用疑惑が持ち上がったことからである。

 組織委員会がエンブレムの白紙撤回を発表した際、組織委員会の事務総長が「一般国民にはわかりにくい」という表現を用いたところ、ネットを中心に「一般人には理解できないほど高尚なデザインなのか」という批判として「上級国民」という言葉が広がった。その後、この事故によって不正追及のキーワードに発展した。

 幸三は金や権力に固執する人物ではないが、世間の思惑に対して無防備だった。沈黙はすべて疑惑から逃れるためと解され、苛烈なバッシングも一時的反応と思いきや、事態は悪化の一途を辿って行った。

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家族に社会的制裁が及ぶ高齢者ドライバーによる死亡事故

 メディアによる偏向報道、推定有罪報道は今に始まった問題ではないがSNSが台頭する現代ではさらに拍車がかかっている。だからこそ、こうした背景を踏まえて対応策を講じなければならなかったのだ。

 加害者が高齢者で被害者が若年者であった場合、特に世間の処罰感情は強く、加害者が厳罰を逃れるならば、代わりに家族が制裁を受けるべきというように、その矛先は家族へと向けられる。甚大な被害に対して、誰かが相応の責任を取らなければ収まらない世間の処罰感情にこたえるように、加害者家族が自ら命を絶つ悲劇も生じ、世の中はそれで事件の幕引きを図ってきたのだ。

 しかし、加害者家族が代わりに罪を引き受け犠牲になったとしても、一時的な世間の処罰感情を満たすだけであって、事件の本質的な解決にはならない。

 幸三は一般的には高齢であるものの自立した生活を送っており、子どもたちがコントロールしなければならない状況にはなく、親の言動に対して子どもたちにまで責任があるというには無理がある。

 近年、高齢者ドライバーによる死亡事故が社会問題化し、メディアも大きく取り上げる機会が増えたことから、高齢者と暮らす家族の緊張感が高まっている。事故が起こると必ず「家族はなぜ止めなかったのか」という議論になり、家族に社会的制裁が及ぶからである。

 しかし、家族連帯責任によって事故抑止を図ろうとするならば、家族関係の悪化を招き家族間の暴力や虐待といった問題を生むリスクを孕んでいる。家族が日常生活のすべてを管理することは、現実に不可能である。

「何度言っても親は運転をやめない」

 という悩みを抱える家族は少なくないが、子どもの言うことを素直に聞く親など稀である。医師から助言してもらうか、一定の年齢以上運転免許を停止する法律を制定するほかない。公共交通機関が未発達で、タクシーもほとんど通らないような地域もあることから、全国一律ではなく地域の実情に即した政策にならざるを得ないだろう。

 高齢化社会に生きるすべての人にとって、決して他人事ではない問題である。