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〈渡辺徹さん死去〉極貧の少年時代、一念発起して家を建てた父、その家で新妻の榊原郁恵は「夏のお嬢さん」を歌った

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2022/12/02
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サッカーと音楽クラブ、児童会をかけもち。先生がスケジュール調整していた小学生時代

 幼稚園の年長の時、同じ古河市内の松原町から小砂町へ引っ越す。高校1年の最初の頃まで住んだ、六畳、四畳半に台所、風呂付きの平屋は渡辺さんにとって一番思い出深い家である。一方で、小学校に上がる頃に父親が体を壊し、家計的には最も苦しい時期でもあった。

 これも時代錯誤甚だしいんですけど、親や親戚に頼るわけにいきませんから、おふくろは隣近所に頭を下げて米や味噌、醤油を借りに行った。ちょうどその頃、おふくろの父親、僕のおじいちゃんに居所がバレちゃったんです。でも、おじいちゃんは「ここにいた!」と声高に叫ぶこともなく、こっそり会いに来てました。とにかく僕をものすごくかわいがってくれて、毎日のようにフラッと来てはポケットから紙にくるんだ今川焼を「はい」とくれて10分ぐらいで帰って行くわけ。本当に面白いおじいちゃんで、ある日、縁側で居眠りしてドサッと落っこちたんです。心配になって見に行ったら、落ちた姿勢のままみんなの履物を揃えてた(笑)。まだ老いぼれちゃいないぞ、というその意地の張り方がすっごく素敵でね。

渡辺徹 ©️文藝春秋

 おじいちゃんは、うちに来ていることは家族に内緒にしてたんですよ。というのも、一緒に暮らしていたおふくろの上の兄は妹を奪った親父のことを「見つけたらぶっ殺してやる」って探し回ってたからね。ただ、僕が小学校の3年生の頃に和解したんです。古河の街中をおふくろと手をつないで歩いていたら、なんとその伯父が向こうから歩いてきたんです。おふくろは出会った瞬間「殺される」と思ったらしい。伯父の顔が真っ赤になったそのときですよ、僕がまったく初対面の伯父に向かって「オッチャン」って走って行った。そしたら、伯父も「おお!」と言って抱きしめてくれたそうです。伯父はもう亡くなりましたけど、それ以来、ずっとかわいがってくれました。僕がデビューしたときもすごく喜んでくれて舞台でも何でも駆けつけてくれました。

 おふくろは6人きょうだいの末っ子なんですが、その頃から自然と他のきょうだいとも行き来するようにもなりました。年越しの時には、親戚一同がうちに集まって忘年会をやるんです。貧乏でしたけど、親父の仕事柄、ギターはもちろん、トランペットやドラムセットまで揃ってましたから、親父とその弟子の生演奏で大カラオケ大会が始まるんです。騒ぎを聞きつけて近所の人たちもやってくるから庭にも椅子を出して飲めや歌えやの大宴会でした。

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 当時の茨城県古河市は、サッカーの町と言われるほどサッカーが盛んだった。渡辺さんも小学3年生からサッカーを始める。

 各学年に一軍から四軍まであって、市内の7つの小学校が毎週日曜日にリーグ戦をやるわけです。それとは別に、学校の選抜チームの対抗試合があり、さらに各学校から選ばれた市の選抜チームが一軍から三軍まであった。ここで一軍に入ると町ではスター。だから、僕もそこに入るのを目標に頑張って、5年生の時に一軍に入りました。小学校の全国大会では10回のうち7回は古河が優勝するという時代で、僕らも優勝しましたよ。朝6時から学校のチームでサッカーをし、授業が終わったら自転車で選抜チームの練習場所に駆けつける。で、日曜日は朝から試合ですからメチャクチャ忙しかった。

 しかも、親父の影響で音楽もやりたくて音楽クラブでトランペットも吹いていました。僕は結構生意気で言いたがり屋だから、気がついたら部長をやらされてましたね。コンクールが近づくと練習で忙しくなるんだけど、サッカーと音楽クラブの顧問が僕のスケジュールを調整してくれるんです。しかも、児童会で会長もやってたから、ホント、今より全然忙しかった(笑)。でも、どれもやりたいことだったから、ちっとも苦にならなかったな。