藤井聡太の「全冠制覇」に注目が集まる将棋界。1970年代から棋士たちと深い交流を重ね、連綿と続くスター棋士の系譜をファインダー越しに追い続けてきた弦巻勝氏が著書『将棋カメラマン』(小学館新書)を上梓した。
伝説と逸話の宝庫である棋士たちや、「思い出深い1枚」について、撮影者の弦巻氏が回想する。
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タイトル獲得19期の実績を持ち、将棋連盟会長もつとめた米長邦雄・永世棋聖(2012年死去、享年69)。昭和を代表するスター棋士が「敗勢」のピンチに追い込まれたのは1999年のことだった。
騒動は、就任間もない石原慎太郎都知事が米長を東京都の教育委員に任命しようとしたことから始まった。都の教育委員任命には議会の同意が必要だが、石原都知事の「米長起用」には全会派が一時、態度を保留する異例の事態となった。
「その原因のひとつが、僕の撮った写真でした」
そう語るのは、半世紀にわたり将棋界と棋士の撮影を続け、米長とは特に親しい関係にあった写真家の弦巻勝氏(74)である。
鳥取砂丘で「本人が無言で服を脱ぎだした」
1985年、写真週刊誌『FOCUS』に仰天写真が掲載された。鳥取県の砂丘で悠然と裸になって立つ男性。それが、当時中原誠(十六世名人)との「十段戦」(現在の「竜王戦」の前身)を控えていたトップ棋士の米長だった。
「中原さんの出身地は宮城県とされていますが、生誕地は鳥取県。米長さんはおそらくそれを意識して、裸一貫で勝負に挑むという決意を表現したのだと思います。たまたま僕と米長さんは雑誌の取材で鳥取県を訪れていて、ついでに砂丘を見に行こうという話になったのですが、写真を撮る予定はなかったのに突然、本人が無言で服を脱ぎだした。だから僕も黙ってシャッターを切ったわけです」