暴力性・攻撃性を抑制するための唯一の方法は、自分のうちにそのような邪悪な欲動が存在するということを認めることです。自分のうちには暴力的な欲動があり、それがさまざまな「迂回路」をたどり、さまざまな「偽装」の下に、無意識のうちに他人を傷つけ、その生きる意欲を損なう機会を狙っているという事実をまず認めることです。
そして、それを何とかして自力で解除する。
自分の暴力性を「飼い慣らす」方法を模索する
――具体的にはどうしたらよいのでしょう?
内田 方法はいろいろあると思います。「作品として外在化する」というやり方もあるでしょうし、宗教的な実践を通じて心身を浄化するというやり方もあるでしょうし、ルールの決まったスポーツを通じて発散するというやり方もあるでしょう。僕自身は武道の修行を通じて自分の暴力性を「飼い慣らす」というやり方を採用しました。
誰にでもできる標準的な「暴力の制御法」はありません。でも、どんな場合でも「自分には人を傷つけることができるし、無意識のうちにそれを望んでいる」という原事実から目を逸らしてはいけません。
注意すべきことは、暴力が発動するときには、必ず「大義名分」を要求するということです。なまの暴力がそのまま無言で発動するということはありません。何か言葉にできるような「名分」が要る。ふつうは「正義の実現」とか「教化的な叱責」とか「教育的指導」とかいう「言い訳」が採用されます。
ですからもし自分の脳裏に「正義」や「教化」というような言葉が浮かび、それに基づいて、人を叱責したり、処罰や屈辱感を与えたりしたくなったら、それはどのような大義名分を掲げていても、実は「この人を傷つけ、生きる意欲を失わせたい」という邪悪な衝動に支配されているということです。
この衝動からは誰も逃れられません。できるだけ人を傷つけないように個人的に努力すること以上のことはできません。でも、それはどれほどささやかであっても尊敬に値する努力だと僕は思います。
――「倫理」や「道徳心」に無力感を感じやすい時代に、子供たちの成熟への動機づけをどうはぐくんだらよいのでしょうか。
心身の自由へのあこがれが「成熟」を動機づける
内田 人を「未熟である」という理由で処罰することはできません。成熟というのは処罰に対する恐怖によってではなく、成熟がもたらす心身の自由へのあこがれによって動機づけられるものだからです。
今の日本社会で成熟への動機づけが弱まっているのは、子どもたちが身近に「成熟した大人」が愉快に暮らしている様子を見る機会がほとんどないからです。まわりには「むすっと不機嫌な顔をした大人」と「人を傷つけたり、屈辱感を与えては高笑いしている大人」しかいないんですから、「成熟することへのあこがれ」が生まれる余地がない。
でも、子どもを大人にするためには、「大人を見せる」以外に手はないんです。ひとりずつ「大人の頭数」を増やしてゆくこと。できるのは、それだけです。
内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『サル化する世界』『日本習合論』『コモンの再生』『コロナ後の世界』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。