――この人は寄付なんか嫌なんだろうなあ。
陽子はそう思った。
一方の宣政の脳裏にはアフリカでの熱い日々がよぎっている。
「汗水をたらし、親父の借金を7年で返した。カネの亡者のように生きてきたんだ。そう急に寄付と言われてもなあ」
2、3カ月間、ずっと考え、佳美の蒼ざめた顔を見ていた。そのうちに、「会社は順調にいってるし、遊興三昧に使うカネでもない。手術費として貯めた金だから、やっぱりこの金は寄付しよう」と思い直して、陽子に「やっぱりお前の言うようにするよ」と告げた。
そう決めると、夫婦は名古屋大学病院に寄付の申し出に行った。
「うちの子は手術できないとおっしゃったでしょう。それなら、この手術費用を寄付しますから、これから生まれる子供がこういう病気を持たないように、病気で生まれてきても治るような研究を、先生、ぜひやって下さい」
ところが、担当医は実直な人で、寄付は受け取れない、と言った。
「そんな大金、うちの病院にもらったって、いまは誰もそんな研究をしていません。どうしても寄付したいっておっしゃるんだったら、女子医大がいいですよ」
女子医大とは、東京都新宿区河田町にある東京女子医科大学病院を指している。東京女医学校を母体に1908年に開設された名門病院で、心臓、脳、消化器、腎臓病治療などで国内でもトップクラスの手術件数を誇っていた。
特に心臓外科の分野には、動脈管開存の手術をわが国で初めて成功させ、日本の心臓外科の扉を開いた教授・榊原仟がおり、全国から心臓病患者が押し寄せていた。榊原はそのころ、東京の代々木に心臓病専門の榊原記念病院を開設して女子医大にはいなかったため、助教授の小柳仁を名大病院の担当医に紹介してもらい、佳美を連れ、夫婦で新幹線で東京に向かった。
女子医大の「一匹狼」男性医師への期待
寄付の話をするためだけではない。小柳は佳美が患う三尖弁閉鎖症に関する論文を雑誌「心臓」に二度寄稿していた。
小柳は母子家庭で育ち、苦労して新潟大学医学部を卒業した後、榊原主任教授の女子医大第一外科に入局しているという。女子医大の卒業生は全員が女性だが、医局には全国から彼のような一匹狼的な男性医師が集まっていた。
その小柳に、宣政は賭けるものがあった。苦労人で自信家でもあるという。もしかすると、新しい治療法を提案してくれるかもしれない、と期待していたのである。
夫婦は外来で小柳に佳美を診察してもらったうえで、これまでの経緯を説明し、懇願した。
「この子に手術を施して、助けてもらうことはできませんか」