さらに、メディアの影響という点で重要なのは、その因果関係の向きです。たとえば仮に、差別的な女性描写が含まれる映像作品を好む人びとには女性差別的な傾向がみられるということが発見されたとしましょう。その場合、「そんな映像ばかりみているから差別的になるのだ」とすぐに結論づけたくなります。しかし、それとは逆向きの因果関係、つまり「女性差別的だからそういう映像を好んで視聴している」可能性もあるわけです。後者の因果関係だけが存在するのであれば、女性差別的でない人がそういった映像を視聴したとしても影響を受けないということになります。
もちろん、もともと女性差別的な傾向をもっていた人が、そうした映像を大量に消費することで、よりいっそう差別的になるという補強効果が生じる可能性もあり、因果関係の向きやそのあり方については慎重な検討が必要です。最近では因果関係を解明するためのさまざまな手法も開発されていますが、それでもその向きを明らかにするのは容易ではありません。
加えて言えば、メディアが与える影響力の大きさには個人差があるのに加えて、さまざまな社会的、文化的要因によっても左右されますから、どの社会にも、いつの時代にも通用するような一般法則をみつけだすのはきわめて困難です。したがって、こうした論争で取り上げられる表現がそれをみた人にどのような効果をもたらすかは「わからない」としか言いようがありません。
「単体の表現」が価値観に影響を与える可能性は低い
それでもあえて言うならば、ある表現が単体でそうした価値観に大きな影響を与える可能性は低いと私は考えています。確かに、何らかの作品でみた性差別的な行為を模倣する個人が出てくる可能性は否定できません。しかし、作品に触れた何十万、何百万の人びとのうち、そこで描かれた行為をたった一人でも模倣する者がいるならその表現は許されないということになると、表現の幅は著しく狭められてしまうことになります。したがって、このような問題は、あくまでより大きな社会的影響という次元で考える必要があります。
とはいえ、メディアが人びとがすでにもっている意見や態度を変える力は限られているとしても、新たに意見をつくる力は大きいということは古くから指摘されています。読者や視聴者が予備知識をもたないことについてはメディアが伝える情報の影響力は大きく、したがってその責任もまた重大だということになります。
さらに、特定のメディアだけでなく、社会全体である種の表現が広く採用されていたならば、特定の価値観が増幅されていく可能性は確かに存在します。情報環境全体が特定の方向に傾斜している場合、個人でそれに抵抗するのは並大抵の難しさではないからです。たとえば、特定の集団への敵意を煽る表現が社会全体で広く共有されるならば、その集団への憎悪が広がるのは避けられません。
ただし、そうした場合にも、ある表現の広がりが具体的にどのような価値観の変化をもたらすのかは最初から決まっているわけではありません。アニメ表現の流行によってもたらされるのが、果たして女性差別的なものなのか、それとも特定の表現技法を「かわいい」と思うだけのものかはわからないということです。はっきりしたことが言えず、本当に申し訳ありません。