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《安室、SPEED、DA PUMPを輩出》「親父はヒロポンを打ちながら…」マキノ正幸さん(享年83)が語っていた“辛い少年時代”

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 映画の業界って、とにかく人がいっぱい集まるんです。親父の仕事仲間に「マー坊」ってかわいがられてね。終戦すぐの頃なのに家の地下室に牛を一頭連れてきて、親父のスタッフたちが解体して、みんなで食べるようなこともありました。

 京都の町並みが一望できる高台に建つ市立清水小学校(2011年閉校)へ。

 大監督と大スターの息子でしょう。僕は単なるボンボンでろくなもんじゃなかった。身体は小さいのに、めちゃくちゃ暴れん坊で、いつも子分を引き連れていましてね。先生まで贔屓(ひいき)をするから成績は常にトップでした(笑)。

京都の父、東京の母の間を行ったりきたり。親の都合にふりまわされた、辛い少年時代

 親父は、家に帰ってくると部屋にこもって、ヒロポンを打ちながら、映画のフィルムを切ったりつなげたりする編集作業を3日も4日も徹夜でやるわけです。ヤク中だから、すぐに平手が飛んでくる。怖いし、遠い存在だし、「お父さん」って呼んだ記憶もないですね。僕も息子や娘に「お父さん」って呼ばせたことないな。血筋なのでしょうか(笑)。

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父のマキノ雅弘 ©︎文藝春秋

 親戚が集まると、大人たちが子供に序列をつけるんです。津川雅彦は当時からかわいくて、背も高かった。顔が整ってないやつはだめ、そんな価値観のある家でした。

 両親の仲は冷えきっていた。小学3年生のとき、祖母に連れられて東京へ移る。渋谷区富ヶ谷の丘に建つ大きな洋館に住んだ。

 親父が買った家のようです。目立つ家でね。敗戦で焼け野原の東京のど真ん中は、当時、バラックばっかりでしたから。向かいが電電公社(現NTT)の初代総裁・梶井剛の家で、裏は青山学院院長の大木金次郎の家。三方から坂を上がっていく高台にある高級住宅地です。

 区立富谷小学校に転校します。みんなつぎはぎだらけの服を着てるのに、僕だけきれいな洋服。しかも家は大邸宅。妬まれないわけがない。学校帰りに、必ず4、5人に待ち伏せされて、容赦なくやられました。京都では暴れん坊だったし、最初は強がっていましたが、あまりにいじめられるので、子供ながら恐怖におののく人生を送るようになってしまいました。