国家は税によってつくられ、税がつくられると必ず発生する脱税。「大化の改新」「源平合戦」「織田信長の延暦寺焼き討ち」そして現代に至るまで、歴史の大きなターニングポイントの裏には必ずといっていいほど脱税が絡んでいた。思わぬ事実に目からウロコ。脱税の視点で日本史を読み解く『脱税の日本史』(宝島社)より一部抜粋して紹介します(全3回の1回目/2回目に続く)
鎌倉幕府は脱税集団だった
平清盛が強大な勢力を持ち、朝廷を牛耳っているとき、その対抗勢力として、同じく軍事貴族の源頼朝が現れます。
源頼朝は、鎌倉武士といわれる武家(主に東国)たちを結集し、大きな勢力を得たために、平氏との戦いである「源平合戦」に勝利し、鎌倉幕府を開くことができました。
実は、源頼朝が率いた武家集団というのは、京都の朝廷や貴族の支配から抜け出そうとした「脱税集団」がその起源となっているのです。
その経緯を説明しましょう。
平安時代の後半、荘園は全国各地に広がっていましたが、その名義上の領主はそのほとんどが京都の貴族でした。
つまり、日本全国の荘園の持ち主は京都に集中していたのです。当然のことながら、京都から地方の田を管理・運営するのは非常に困難です。
そうなると、京都から有能な者を派遣して経営を任せたり、現地の豪族に管理を委ねるということになっていきます。
そして、荘園を任せられた者たちが、だんだん荘園内で実権を握っていきます。そういう者たちのことを「在地領主」や「名主」と言います。