「在地領主」や「名主」たちは、最初は、荘園領主の命令に従っているだけでしたが、やがて荘園領主の支配に反発したり、支配から抜け出すようになってきました。決められた租税を払わなかったり、たくさんの中間搾取を行い、貴族や朝廷にはほとんど入ってこないという状況が生まれていたのです。
武家たちに土地の所有権や徴税権を認めた源頼朝
もともと東国(関東以東)というのは、朝廷にとって統治しにくい場所でした。蝦夷地域と接しており、反乱分子が多いうえに独立心も強かったからです。平安時代には「東国の租税は、他の地域の半分でいい」とさえ言われていました。そのくらい、東国は徴税しにくいとされていたのです。
そのため、東国では平安時代の末期になると、中央のコントロールが利かない「在地領主」 「名主」が激増してきました。
「在地領主」や「名主」は、平安時代の治安の悪化に伴い、各自が強固に武装するようになりました。「在地領主」「名主」たちの間では、土地の所有権などを巡って、小競りをするようになり、必然的に武力が必要となったのです。
彼らは、馬や武器を揃え、家人たちに訓練を施しました。
こうして「武家」が誕生していったのです。
平氏や源氏などの軍事貴族というのは、この地方の武家たちを統率し、内乱の鎮圧などにあたることで勢力を伸ばしていったのです。
ただ、平氏と源氏では、武家への対応がまったく違いました。
平清盛は、この武家たちを朝廷のシステムの中で支配しようとしていました。土地の支配権はあくまで朝廷や中央貴族にあり、各地の武家は朝廷や中央貴族たちから土地の管理を委ねられているにすぎない、という姿勢を崩さなかったのです。
しかし、源頼朝は武家たちに土地の所有権や徴税権を認め、朝廷や中央貴族たちの支配から解放しようとしたのです。
源頼朝は武家たちに対してその約束をすることで、武家たちの支持を得ることに成功し、平氏をしのぐ軍勢を率いることができたのです。