目が離せなくなった。カッコいい文字が少し待つともっとカッコよくなる。チョークの時点で動きがあると言ったけれど、最早、生きているという感じだ。最初は遠く薄かったシンナー臭が、段々、鼻の先で香りだす。
地下で面白いことをやっていると情報が回ったらしく、現場には入れ代わり立ち代わり文藝春秋の社員さんが現れた。皆「凄い」とAさんのライティングに目を見張っていた。僕らは酒を片手に「ですよね」と何故か自慢気にしていた。
なんだか、幸せな空間だった。
観野さんが『イッツ・ダ・ボム』について、あそこが良かったと言ってくださった箇所がある。TEELがかつての仲間の店で閉店後、明かりもBGMも落としワインを飲みながらあれこれ話をするシーンだ。この場にも、どこか同じムードがあるような気がした。
ライターという生き物なら…
ビールを補給しにきたAさんが「もう少しで完成」と言った。丁度、青地の文字に緑のスプレーを入れた直後のタイミングで、安尾さんが「あの差し色、めっちゃ良いですね」と触れた。
「普段はやらないですけどね。色の違いが分かる、明るいところだから入れてます」
「やはり、いつものスタイルとは違うんですか」
「そうですね。今日は自分らしくというより〈ライターという生き物〉ならこんな感じでやるだろうなというところまでやるつもり」
一般の人との間に線を引く言い回しをAさんは何度も使った。ライターという人種もボムという行為も客観視をしているタイプなのだろうと思った。落書きについては「人生を天秤に掛けたゲーム」と言っていた。場合によっては逮捕される危険性も十分以上にある。それでも、ゲームを続けているのだ。
小説にどこまで書けていただろうか。逮捕される覚悟までは書いた。けれど、Aさんが話す時の、あっけらかんとした感じは恐らく出せていない。情報が明確に間違っていたみたいなことはなさそうだったが、他所からは拾いようがないものは無数にある。
「でも、あの小説、分かっている人が書いているなと思いましたよ。ライター同士の人間関係の感じとか」
まだ前半までとのことだがAさんも『イッツ・ダ・ボム』を読んでくださっていた。僕は頭を下げながら、一応、及第点はもらえているみたいだ、なんて考えていた。
22時過ぎ、Aさんが完成の宣言をした。
出来上がった〈イッツ・ダ・ボム〉の文字を見ながら、僕はこの日一番の「あの小説を書いて良かった」のため息を漏らしていた。写真を撮る時に顔が赤いと笑われてしまったけれども、ビールの飲みすぎだけでなく感動で高揚していたのもあったと思う。
とにかく、素敵な夜だったのだ。
井上先斗(いのうえ・さきと)
1994年愛知県生まれ、川崎市在住。成城大学文芸学部文化史学科卒業。2024年『イッツ・ダ・ボム』で第31回松本清張賞を受賞しデビュー。
『イッツ・ダ・ボム』あらすじ
「日本のバンクシー」と耳目を集めるグラフィティライター界の新鋭・ブラックロータス。公共物を破壊しないスマートな手法で鮮やかにメッセージを伝えるこの人物の正体、そして真の思惑とは。うだつの上がらぬウェブライターは衝撃の事実に辿り着く。(第1部)
20年近くストリートに立っているグラフィティライター・TEEL。ある晩、HEDと名乗る青年と出会う。彼はイカしたステッカーを街中にボムっていた。馬が合った二人はともに夜の街に出るようになる。しかし、HEDは驚愕の〝宣戦布告〟をTEELに突き付ける。(第2部)
「俺はここにいるぞ」と叫ぶ声が響く、圧巻のデビュー作!