「文春本社に、こんなアングラな空間が……」
天井の明かりが落とされ、コンクリートうちっぱなしの壁を照らすライトだけが眩しく輝いている。床にはスプレー缶の詰まった段ボールや座高低めの椅子、用途不明の台などが雑多に置かれている。落ち着いたリズムのローファイなBGMまで流されていた。あえてのセッティングだとは承知していても館内との落差に驚く。
「普段は半分くらい倉庫として使ってます」
その倉庫エリアから引っ張り出してきたというテーブルを囲むように3人、立っていた。
安尾さんから紹介を受け、アイスを配りながら挨拶をする。デザイナーの観野さん、カメラマンの今井さん、そしてグラフィティライターのAさん。
Aさんは、落ち着いた雰囲気の朗らかな笑顔の方だった。「TEELってこういう人なのかなと思いました」と『イッツ・ダ・ボム』の登場人物に喩えていたのは安尾さんだが、確かに、普通に働きながらもボムをやっているならこういう人だろう、と小説に書いていたライター像に近い。
観野さんとAさんが打ち合わせをしている間に、壁をバックにしての僕の写真を今井さんに撮っていただく。
あらためて壁を見つめた。剥き出しの配管が額のように這う傷だらけのコンクリートの平面は、画になりそうな予感はしたけれども、まだ、それ以上は何も見えない。
「始めましょうか」
安尾さんがクーラーバッグから缶ビールを取り出した。銘々、手に取る。
お酒を用意しているとは地下までの道中で聞いていた。見ているだけの僕はともかく仕事をする皆さんはいいんですか、と冗談っぽく安尾さんに言ったら、Aさんは普段も、お酒飲みながら書くらしいのでと返された。ちょっと、ゾクゾクした。
乾杯の後、Aさんが壁へ向かう。僕らは椅子へ腰を下ろして見守った。
ライティングはAさん一人でやる。その様子を動画で撮るので、始まったら、なるべく壁には近づかないようにと言われている。ライトに照らされている範囲はAさんだけの世界だ。その真ん中で、腕が振られる。
良かった、チョークを使っている。『イッツ・ダ・ボム』でグラフィティを書く時にチョークで下書きをする戸塚千里というキャラクターを登場させていた。後でAさんに聞いたところ普段はチョークなんて使わないとのことだったが、それも含めて、ほっとした。戸塚は仕事で書いているライターなのでストリートの人とは違ってちゃんと下書きをするのだと描いている。
Aさんは〈イッツ・ダ・ボム〉の〈イ〉から取り掛かっていた。壁に印をつけたりはせず、最初から文字だ。〈イ〉を終えたらそのまま次の文字が続く。