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 博人に翻弄される女たちの中、恋心を抱きながらも成就することはなく、それでいて血の繋がらない娘として彼から多くを教わった莉菜は、結ばれなかったからこそ、誰よりも強く彼の影をその身に宿す。出発に死があるから今更潰えるものなどなく、莉菜はずっと彼の幻影に導かれるように生き、不在を見つめながらただ一人を想い続ける。そう、まるで炎がなくともいつまでも真っ赤にその身を燃やし続ける熾火のように。

 物語の中盤、彼女は密かに抱えていた念願を叶えるけれど、それすらきっと代用で。つくづく男とは難儀なものだ。そして、その思い出を胸に人生と折り合いをつけ、自らの手で人生の後始末に取り掛かる彼女の生き方もまた不器用で、切ない。人間とはどこまでも愚かで寂しくて、だから愛おしいのだと、物語は訴える。

 博人とは違い、作品の中で莉菜は次第に年を取り、力を失っていく。老いを晒し、死に場所を求め、それでもずっと彼女がかっこいいのは、己の足で乾いた大地をしかと踏みしめ、その孤独を見据えて生きているから。気高く意思を持って流転しつづける女の生き様のなんと哀しく潔く美しいことか。

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影山莉菜は、釧路の街を裏社会から牛耳ろうとしていた。

影山莉菜は幸せ、だったのだろうか。

 彼女は幸せ、だったのだろうか。幸せをどのように定義するかは人によるとは思うけれど、ただ一人を胸に、道なき道を進み続ける姿をどこか羨ましく感じた。その瞬間を抱きしめて生きていける、そんな人生の一幕は万人に用意されたものではない。愛に生き様が現れるのだとしたら、生き様によって愛を定義できるのだとしたら、私はどんなふうに愛し、生きていこうか。若い頃は衝動のままに突っ走ることもできた。今は、どうだろう。ああ、三十を越えてまだまだ分からないことだらけだ。それでも莉菜を見ていると、分からないなりに、どこに行きつこうと背筋を伸ばし、自分の人生の落とし前は自分の力でつけてみせる、と思えた。

 莉菜を突き動かすのは義父の「男と違って女のワルには、できないことがないからな」という言葉だ。腹をくくった女にできないことなど、怖いものなど何もない。それはきっと生まれついてのワルというよりワルになることを選んだ者が持つ、底なしの執念によるものだ。そうと決めたら私たちは、何にだってなれるし、何だってできる。転がるように生きて生きて、川底にさらされ傷つききった先にこそ見える景色もあろう。それは呪いだろうか? いいや、きっと祝福。