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アラサーで、歌手を目指して上京

――会社勤めの身からどのようにプロ歌手を目指すようになったんですか?

保科 もともと歌の勉強をしていて、OLをしながらたまに地元・金沢のお祭りとかで歌っていたんです。どうせプロの歌手なんか無理だし、そのまま地元で歌っていくので満足なつもりでした。でも、ある作曲家の先生と偶然出会い、「やる気があるなら上京しますか?」と声をかけていただいて、1990年1月に上京しました。28歳の頃だったかな。

――それだけ聞いたら、「見出されてラッキー」のような印象を受けますが……。

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保科 ぜ~んぜん(笑)。かばん持ちと運転手を3年間やって、ついにデビューできることになりましたが、先生から「政治力を使って売り出したりはしない」とはっきり言われていました。デビューはできたものの、曲が難しいのもあって、なんだかマイナス思考の中でのデビューでしたね。デビュー曲も2曲目もさほど売れませんでしたが、その次に平浩二さんのヒット曲『バス・ストップ』のアンサーソングとして『バス・ストップ2』を歌わせていただけました。

 ほかにも所属事務所が給料を払えなくなってきたときは、運良くほかの事務所に拾っていただけたり……。「あと半年やってダメだったら金沢に帰ろう」と引越し業者を探し始めたところで、なんとか首の皮一枚つながることが多いですね。私の人生、挫折と奇跡の繰り返しです。

デビューした頃の保科(画像:Amazonより)

――愛人キャラで認知されていますが、お話を聞けば聞くほど、真面目な人柄が伝わってきます。むしろ、こんなに真面目な方が20代後半でいきなり歌手を目指したことが不思議というか……。

保科 「ダメでもともと」思考だからこそ、思い切って飛び込めたのかもしれません。母親にそういうふうに育てられてきたんですよ。うちの母親は、子どもを変に持ち上げたり励ましたりするような教育をせず、「どうせ無理なんだから」みたいに言うタイプ。私が上京するのを決めたときも、ずっと「歌手なんてなれるわけない」と反対されていました。

 そういう母のもとで育ったからこそ、「ダメで当然。ダメだったらこうしよう」と常に最悪のケースへの心構えができています。OL時代から結婚式の司会の勉強なんかもしていたので、歌手がダメでも何かしら別の道はあるだろうと思えました。よく器用貧乏だと言われますが、器用で何が悪いんだってね(笑)。「自分に過度な期待はせず、任せていただいたことは一生懸命に頑張ろう」という一心です。