父、ウディ・アレンの性暴力スキャンダル
本書にはローナンがワインスタイン側から、自身のプライベートな体験と取材テーマが重なるため、ジャーナリストとしてこのテーマに相応しくない、バイアスがあるのではないか、と批判を受けたことが記されている。
ローナンの父である映画監督、ウディ・アレンが、当時七歳だった養女(ローナンにとっては義姉)のディラン・ファローに対して行った性暴力によって、ディランはその後も長く苦しんできた経緯が、本書には描かれている。
近しい人が性暴力で苦しんできた、その姿を目の当たりにしているからこそ、彼はこの犯罪(そして犯罪とされてこなかったことも含め)にメスを入れることを諦めなかったのだ。性暴力は被害当事者だけでなく、その周囲にいる人々にも大きな影響を与える。家族の間に容赦無く溝を作り出す。友人だと信じていた近しい人を失うこともある。
実際ローナンは、過去に囚われてほしくないという思いで発した「どうして過去にこだわるの?」という言葉で、姉に沈黙を迫ってしまった自分に対する後悔の念を綴っている。
一方で、この長い取材期間中、著者にとって姉は大きな存在だったように感じる。彼女は要所で必要なアドバイスを彼に与えている。
家族の中で起きた性暴力とどう向き合ってきたのか、自分はどうありたいか、姉の言葉をどうしたらもっと聞けたのか、そんな葛藤が聞こえてくる。この本はある意味で、姉に対するラブレターでもあると思う。
バイアスのない取材など存在しない
私個人は、バイアスのない取材なんて存在しないと考えている。私たちは意識的であれ無意識的であれ、自らの判断で取材対象を選び、使う言葉を選ぶ作業を繰り返しながら取材を重ねていく。だからこそ、情報の受け取り手は、ただそのままを受け取るのではなく、そこにバイアスが存在する可能性を常に意識しながら、時に記者目線、時にインタビューに応じた当事者目線になってニュースと向き合うことが、様々な情報が溢れる今だからこそ、求められているのではないだろうか。
二〇二四年四月二十五日、この文章を書いている最中に、ハーヴェイ・ワインスタインの事件に新たな展開があった。ワインスタインに対し、二十三年の禁錮を言い渡した二〇二〇年の一審判決を、ニューヨーク州の最高裁判所が破棄したのだ(ワインスタインは二〇二二年にカリフォルニア州でも有罪となり、禁錮十六年を命じられている)。
このニューヨーク州での裁判では、約一〇〇名の被害者が名乗り出ていたが、結果的に起訴できたのは二名のケースだけだった。今回の最高裁による判決破棄は、現在のアメリカの司法で過去の性暴力を立証することがいかにむずかしいかを示している。本書で詳細に綴られているように、数えきれないほどの女性たちが証言しているのにもかかわらず、だ。
司法の下す判断は社会の規範を示すべきものだが、現実には、その時代の法律が切り取れる限りの「ある形」を示しているにすぎない。そしてそれは、司法の改善すべき点を浮き彫りにしてくれるのだ。実際にアメリカでは、性犯罪に関する公訴時効の期間が延長されるなど、#MeToo運動の後にいくつかの法改正が行われた州もある。こうした動きは、アメリカ国外でも積極的に広がっている。スウェーデンでは「No means no」から「Only yes means yes」、つまり、「不同意」性交がレイプとされていたところから一歩進み、「積極的な同意」がなければレイプと見なされることになった。