1ページ目から読む
2/3ページ目

対戦相手以外の「何か」との闘い

 戦う内に、千種には飛鳥の顔が先輩たちの顔に見えてきた。

 千種が殴り、蹴っているのは、自分を「汚い」と嫌う先輩たちであり、負け犬呼ばわりする松永兄弟であり、「キチガイ!」と吐き捨てた親戚の少年であり、庭に追い出した伯父であり、自分を「バーの子」と差別した同級生であり、教師であり、世間そのものだった。

 飛鳥には千種の心の内部は見えない。それでも、千種が対戦相手以外の何かを蹴り続けていることは、ひしひしと伝わってきた。

ADVERTISEMENT

 飛鳥もまた、際限なく千種を蹴り続けながら、自分を取り巻く何かを破壊しようとしていた。押さえ込みルールによる真剣勝負を命じているのは松永兄弟であり、実力でWWWA王者にまで上りつめたのがジャガー横田だ。つまり、全女は実力社会なのだ。自分は近い将来、ジャガー横田を実力で破って赤いベルトを巻くつもりだ。ジャガー横田を破ることができるのはライオネス飛鳥しかいない。なのになぜ、松永兄弟は強い自分に「つまらない」などと言うのか。なぜ実力以外の価値基準を、ここにきて持ち出してくるのか。矛盾しているのは自分ではない。松永兄弟なのだ。

 飛鳥と千種が戦った全日本選手権に段取りなど一切ない。自分がやりたい攻撃を全力でやる。ただそれだけだ。飛鳥が場外で千種に強烈な蹴りを叩き込むと、ふたりの蹴り合いは次第に飛鳥優勢へと傾いていく。

 飛鳥が千種を押さえ込み、レフェリーのスリーカウントが入ったのは、試合開始から18分が過ぎた頃だった。

 王者の防衛は順当な結果だった。千種は空手の有段者だが、身体は細く一般人並み。いかにもプロレスラーらしい飛鳥とは体格が違う。体重も飛鳥が遥かに重かったから、張り手の一発、蹴りの一発に重みがあり、その上飛鳥は押さえ込みルールの試合では無敵の強さを誇る。

 これまでの試合と異なるのは、全力を出し切ったことと、観客が大いに沸いたことだった。ライオネス飛鳥は、勝ったことよりもそのことの方がうれしかった。

敗者の表情は恐ろしく魅力的だ

 無我夢中で戦っていた長与千種が我に返ったのは、連打されるゴングの音が余韻を残して消える直前だった。

 最初に天井が目に入った。

 反射的に飛び起き、リングに四つん這いになった。

 飛鳥の姿を探すと、レフェリーに手を上げられている。

 そうか。自分は負けたのか。

 負けた長与千種は、勝ったライオネス飛鳥を見た。

 射るような、燃えるような目だった。

 敗者の表情は、しかし恐ろしく魅力的だった。

 観客は負けた千種に、勝った飛鳥以上の惜しみない拍手を送った。