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 翌日、千種はマネージャーの松永国松のところに行った。

「プロレスを辞めたい」と言うつもりだった。

 煙草を吸っていた国松は、千種が引退を口にする前に、煙が目にしみて痛いという表情をしながらこう言った。

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「やっとお前らしくなってきたな」

「えっ!?」

「お前はそうじゃないと面白くないんだよ」

 すでに国松は、長与千種の中にプロレスラーとしての天性の素質を発見していた。

長与千種 ©文藝春秋

「あの女がプロレスを辞めるはずない」

 感情を表現する能力が卓越している千種は、試合に負けても観客を魅了してしまう。勝者よりも、負けた千種の方に観客の目が引きつけられる。

 国松が千種にことさらにつらくあたったのは、心中深く眠っている本物の感情をすべて吐き出させるためだった。

 後援会が結成され、長与千種の第二の故郷となった福島で、押さえ込みに強い立野記代との試合をあえて組んだのは、国松が立野の勝利を確信していたからだった。立野はジャガー横田とライオネス飛鳥のグループに所属している。ジャガーと飛鳥を相手に日頃から練習していれば、千種に負けるはずがない。

 後輩に負けて辞めていった選手などいくらでもいる。もし千種が辞めてしまうのなら、そこまでの選手だったということだ。

 だが、そんなはずがない。あの女がプロレスを辞めるはずなどないのだ。

 飛鳥の持つ全日本選手権に挑戦させる前、千種に向かって「負けるに決まっているけどな」と挑発したのもそのためだ。精神的に追い込んでこそ、この女は光り輝く。

 この試合で千種は本性を現した。ついに自分の感情を全開にしたのだ。面白くなるのはこれからだ。引退だって? 冗談ではない。ここで辞めてもらってはこれまでの苦労が水の泡だ。

 プロボクシングの10回戦ボーイにまでなり、赤木圭一郎の主演映画のボクシングシーンで対戦相手を務めた経験を持つ国松は、ファイターがどのような言葉に反発し、発憤し、勇気づけられるかをよく知っている。元女子プロレスラーを妻に持ち、女という生き物の行動原理も知り尽くしている。国松はたやすく手の内を明かしたりはしなかった。

 優秀な騎手の手綱は、最後の最後まで引き絞られているものだ。

1985年のクラッシュ・ギャルズ

1985年のクラッシュ・ギャルズ

柳澤 健

文藝春秋

2014年3月10日 発売