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取材は普通1回。でも先生は違います

 先生は「取材の鬼」という定評があり、事実その通りなのですが、取材が2段階あることは知られていません。まず最初に小説の大枠に沿って、徹底的に取材する。取材したファクトを生かす形でストーリーを練り上げる。

 が、この先があるのです。ストーリーを練りながら、もっと面白い展開にならないかを検討する……もしこんな人物がいてこんな行動をしたり、こんな事件が勃発したら、小説が俄然盛り上がる……。で、そうした「望ましいストーリー」を可能にするようなファクトを探し出す。これが2度目の取材となります。先生がすごいのは、2度目の取材の結果、ストーリーを保証するファクトが見つからない場合、その話は捨ててストーリーを変更しないこと。事実の裏付けがない話は、たんなる空想であってリアリティに欠けるというのです。作品の迫力は、こうした取材と創作、現実と想像の往復運動によって支えられていると言えるでしょう。

中国の宝山製鉄所を取材中の先生(1984年11月)。写真:中井勝

先生の涙

 先生から学んだこと、教えられたことはたくさんあります。

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 物語の前半、主人公である陸一心が、内モンゴルに追いやられ、黄書海という囚人に出会う。黄は日本から帰国した華僑(かきょう)で、一心が日本人だとわかると、母国語を知ることの大切さを説き、彼に日本語の読み書きを教えるわけです。

 一心が黄書海と出会うきっかけになったのは、黄が吹いていた口笛でした。先生は最初から口笛の曲を「さくらさくら」に決めておられたのですが、私はちょっと疑念を呈しました。「『さくらさくら』って“いかにも”すぎませんか? 何か他の曲を考えましょうか」と。すると「他の曲はあかん、『さくらさくら』やから良いんやないの」と一蹴されたのです。

本栖湖から見た富士山。写真:shunji_yoshimi/イメージマート

 同じようなやり取りは、一心が日本を初訪問するシーンでも生じました。彼は信濃の満洲開拓団の人たちと一緒に富士山に行く。そして周囲の人たちの打った柏手(かしわで)で幼年時代の記憶がよみがえります。私は先生に、「富士山となると風呂屋のペンキ絵を連想しちゃう。長野の生まれなら、富士山より常念岳(じょうねんだけ)や御嶽(おんたけ)のほうがリアルじゃないですか」と申しました。先生は強い口調で「いや、富士山やないとあかん!」。

六甲山頂上付近にある先生の別荘に訪問。『大地の子』が刊行された後で、ちょうど「週刊新潮」で「沈まぬ太陽」を連載していた頃(1998年8月)。
先生は、六甲から見た神戸・大阪の夜景がお気に入りだった。撮影:野上孝子