もう病院生活の人になっていたのだろう、いや自分の気持ちは街に出ることでなく、その先のことを考えていたのだと思う。

「神様も、もうこれぐらいで許してくれますよね」

この頃すでにMさんはスーパーで買物などもできるくらいになり、私のヒーローだった。日常生活に戻ること、つまり退院のことを私たちは「シャバに出る」という符丁を使って言い表していた。Mさんはそのシャバに出る数日前に、療法士の人と街中に出て、そのリハビリ中に街の信号の意味がわからないことが判明して退院が延びた。

信号の色は見えていても、「赤で止まり、青で行く」という信号の概念が頭から抜け落ちていたのだ。

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その話を聞いて脳を傷つけるということの怖さに私はゾッとした。

高次脳機能障害の場合、例えば音を聞くことはできるが、その直前に聞いていた音を憶えていないとメロディー(旋律)というものがわからない。音の連なりを音楽として認識することができないのだ。説明が難しいが、信じられない事例をたくさん見聞きした。

Mさんがこの病院をついに退院しなければならない日の午前、彼がタクシーに乗り、一人で去られるのを玄関で見送った。

「シオミさん、神様仏様も、もうこれぐらいで、私たちを許してくれますよね……」

との言葉を残して彼は去って行った。高次脳機能障害は克服されたのだろうか、どこに行かれたのだろうか。強い人だった。

塩見 三省(しおみ・さんせい)
俳優
1948年京都府生まれ。演劇を志し、中村伸郎、岸田今日子らと伴に別役実や太田省吾の舞台作品、つかこうへい作・演出の「熱海殺人事件」他に出演。その後、映画「12人の優しい日本人」「Love Letter」「ユリイカ」「血と骨」「アウトレイジビヨンド」、NHK連続テレビ小説「あまちゃん」「パンとスープとネコ日和」他、多数の映像作品に出演。2014年に病に倒れるが、2017年、北野武監督の映画「アウトレイジ最終章」(第39回ヨコハマ映画祭助演男優受賞)で復帰。「劇映画孤独のグルメ」など。近年は、エッセイや脚本、書評も執筆し、著書に『歌うように伝えたい』がある。