「終身雇用」は1980年代から揺らいでいた
「終身雇用」という言葉が、日経の社説に掲載され始めたのは1981年で、1984年には年間7本の社説が終身雇用というキーワードを扱っている。
〈いまや「寄らば大樹の陰」とばかりに安穏な会社人生を送ることは難しい世の中である。自らの適性に応じた職業選択をしたうえで、さらに職業能力の開発に努めなければならない。年功序列、終身雇用という日本的な労使慣行も大きく揺さぶられ始めているのは間違いない〉
日経が社説「“変化の時代”に対応する雇用態勢を」で、こう指摘したのは1984年5月17日付朝刊だ。
「終身雇用」と「年功序列」の誕生
野口悠紀雄は『1940年体制』(東洋経済新報社)で、終身雇用、年功序列などの日本企業の特性の淵源を戦中の1940年に導入された国家総動員体制と位置付けた。
長期間働くことで賃金や退職金が増える仕組みが戦時体制の中で築かれ、労働者の流動化を防いだ。終身雇用、年功序列の仕組みは、1950年代から始まる高度成長にうまくマッチする。洗濯機、冷蔵庫、カラーテレビの大量生産で日本が世界をけん引した時代だ。しかし、1970年代の2度のオイルショックとともに、日本経済の急成長は鈍化。省エネなど技術力で世界に注目される一方、1980年前後からは、追いつけ追い越せで、大量生産を支える終身雇用、年功序列は「大きく揺さぶられ始め」、社内失業である「窓際族」の悲哀が新聞紙面を飾るようになったのだ。
「窓際族」という言葉が、日本経済新聞に載ったのは1978年のことだ。
1982年11月2日付の日経新聞朝刊の連載記事「その日から(4)永年の蓄積は本に(サラリーマン)」の中で、ある大手メーカーの「繊維本部長付」となった56歳の男性の言葉が紹介されている。
「窓際族の定義を教えてあげましょう。今日ハ会社ニ行ッテ何ヲシヨウカ、毎朝ソウ考エネバナラナイ人間ノコト」
1980年代に、学生時代を過ごしたバブル世代は、高度成長期に巧く機能していた終身雇用の会社システムの根幹が揺さぶられていることを日経などの報道を通じて十分に知り、その限界を感じながら、社会に出る準備をしていた。日本を含めた先進国が、アメリカ経済を支援するドル安誘導に取り組むプラザ合意に踏み込んだのが1985年だ。そして、プラザ合意が生み出す円高不況を警戒した日銀の低金利政策などの余波で発生したバブル経済の中で、社会人生活をスタートさせることになった。
1989年末には日経平均株価は4万円近い高値を付け、地価の高騰で、東京23区の土地をすべて売れば、アメリカが2個買える、とまで言われた。
「24時間戦えますか」という栄養ドリンク「リゲイン」のCMソングが流れ出したのは1988年ごろ。ジュリアナ東京には派手な衣装で踊る若者たちが集った。バブル経済に沸き立ち、猛烈に働く会社人間の群れに、バブル世代の若者は、飛び込んでいったのだ。