太宰治の落選──草創期のドラマ

芥川・直木賞90年記念特集

安藤 宏 東京大学名誉教授
エンタメ 読書 芥川賞 歴史

芥川賞は第1回から「事件」だった

 今年は芥川賞が創設されてから90周年に当たる。この間、社会における「文学」の位置づけは大きく変化したが、こと「芥川賞」の果たしてきた役割、という点に関しては、一貫したものがあったように思う。あえて言えば、「新人」創生のドラマの可視化、とでも言ったらよいのだろうか。時には受賞や落選をめぐる風聞や“場外乱闘”などがメディアでショーアップされることもあり、作者もまた、そこに生じる「作者像」をみずから演じることによって、それが創作にさらなる伝説を付与する結果になることもあった。おそらくこうした数々のドラマの源に、草創期に世上を賑わせた“太宰治落選”をめぐるトピックがあったと思われるので、これを振り返ることによって、あらためて近代の文学者たちの“業(ごう)”のようなものについて考えてみたいと思う。

 そもそも芥川賞は龍之介の歿後10年を視野に、盟友だった菊池寛が文藝春秋社主催で設立したもので、ジャーナリズム主導のもと、文学賞を通して「新人」が社会的に認知されていくあらたな動きを象徴するものでもあった。それまでの文壇デビューの手立ては、大家に同人誌を送って評を仰ぎ、その推挽にあずかる、という形が一般的なものだったのである。たとえば明治末期~大正半ばにかけてのいわゆる近代文学の黄金時代――漱石、鴎外、谷崎、芥川、志賀らの主要作品はほぼこの十数年に集中している――にあっては、文壇は自然主義VS反自然主義(耽美派・白樺派・新思潮派)といった流派に截然と分かれ、新人もまたみずからのめざす主義主張にそってそれぞれの旗の下(雑誌や学閥)に集まるのが一般であった。だが、関東大震災以降、状況は大きく変わっていく。大衆文学の勃興に象徴されるようにマスメディアの力が大きなものになり、以後、「新人」は出版機構側の要請によって“作られる”要素が強くなっていくのである。その意味でも以下に述べる太宰と芥川賞との関係には、旧来の文士気質と新たな出版資本の論理とがせめぎ合う、過渡期特有の興味深い様相が表れているように思う。

〈僕、芥川賞らしい〉

 太宰治(本名津島修治)がペンネームを使い始め、文壇に登場するのは昭和8年(1933)のことで、芥川賞制定の発表はその翌年、第1回受賞作が発表されたのはさらにその翌年の昭和10年のことである。参考までに受賞作決定までのプロセスを整理しておくと、昭和10年6月13日に第1回銓衡委員会が開かれ、メンバーは久米正雄、佐藤春夫、室生犀星、瀧井孝作、小島政二郎、横光利一、菊池寛、佐佐木茂索、山本有三、谷崎潤一郎、川端康成の11名であった。7月24日に第2回銓衡委員会が開かれ、最終候補の決定を任された瀧井が石川達三「蒼氓」、外村繁「草筏」、高見順「故旧忘れ得べき」、衣巻省三「けしかけられた男」、太宰治「逆行」の5作を選定することになる。太宰は七月の末に人づてにこれを耳にし、興奮していたとも言う。〈僕、芥川賞らしい。新聞の下馬評だからあてにならぬけれども、いづれにせよ、今年中に文藝春秋に作品のる筈〉(小舘善四郎宛、昭10.7.31)という、気持ちの高揚を伝える葉書なども残っている。

太宰治(撮影 渡辺好章)

 しかし結局、選ばれたのは石川達三の「蒼氓」であった(決定は8月10日)。当然、太宰は深く失望したにちがいない。その後の小舘善四郎宛葉書(昭10.8.13)には、〈芥川賞はづれたのは残念であつた。「全然無名」といふ方針らしい〉〈ぼくは有名だから芥川賞などこれからも全然ダメ。へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ〉といった内容が記されている。

〈刺す〉――川端康成への挑発

 問題はその後である。「文藝春秋」昭和10年9月号に、今も恒例として親しまれている選評――「芥川龍之介賞経緯」――が掲載されるのだが、その中で佐藤春夫は、「逆行」ではなく「道化の華」(「日本浪曼派」昭10.5)が候補に選ばれるべきであった、という意味のことを述べ、一方川端は〈「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた〉と評したのである。激昂した太宰は直ちに翌月の「文藝通信」(「文藝春秋」の姉妹誌ともいうべき文壇情報誌)に「川端康成へ」と題する一文を投稿し、川端の「禽獣」(昭8)の作品内容を揶揄してのことであろう、〈小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた〉と反撃することになる。これに対して川端は同誌の翌月号に反論「太宰治氏へ芥川賞に就て」を寄せ、〈芥川賞決定の委員会席上、佐佐木茂索氏が委員諸氏の投票を略式に口頭で集めてみると石川達三氏の「蒼氓」へ五票、その他の四作へは各一票か二票しかなかつた。これでは議論も問題も起りやうがない。あつけない程簡単明瞭な決定である〉〈太宰氏は委員会の模様など知らぬと云ふかもしれない。知らないならば、尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい〉とたしなめたのだった。不遜の暴言であるなら前言を取り消そう、という一節なども記されており、解くべき誤解は解き、謝るべき点は謝罪する、という大人の態度である。客観的に見ても反論の余地はなく、太宰はこの文章に対して特に何も反応を示していない。

 今日から見た時、太宰の“挑発”はいかにも奇矯なものに見えるかもしれない。しかしそれが一概に異常なものとも言えないのは、実はこうしたパフォーマンスが、それまでの文壇――先に触れた黄金時代――にあっては決して珍しくない“演技”の形だったからである。たとえば芥川龍之介は仲間の菊池寛、久米正雄らの小説ではとんでもない悪役に仕立て上げられているし(菊池「無名作家の日記」〔大7〕、久米「良友悪友」〔大8〕など)、志賀直哉もまた、親友の里見弴から、自分は志賀の影響力から逃れたいのでいっそ彼を殺してしまおうかとすら考えた、などと書かれていたりもする(「善心悪心」〔大5〕)。谷崎潤一郎と佐藤春夫は妻の“譲渡”をめぐって絶交し、さらにそれを互いに小説の題材にし合っていた(佐藤「この三つのもの」〔大14~15〕、谷崎「蓼食ふ虫」〔昭3~4〕ほか)。さらに太宰の尊敬していた郷里の先輩作家、葛西善蔵は自然主義系統のグループだったが、彼等もまた互いを中傷し合う、血で血を洗うような“抗争”を繰り広げていたのである。

有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。

記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!

初回登録は初月300円

月額プラン

初回登録は初月300円・1ヶ月更新

1,200円/月

初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。

年額プラン

10,800円一括払い・1年更新

900円/月

1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き

電子版+雑誌プラン

18,000円一括払い・1年更新

1,500円/月

※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き

有料会員になると…

日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!

  • 最新記事が発売前に読める
  • 編集長による記事解説ニュースレターを配信
  • 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
  • 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
  • 電子版オリジナル記事が読める
有料会員についてもっと詳しく見る

source : 文藝春秋 2025年9月号

genre : エンタメ 読書 芥川賞 歴史