サイエンスライターの佐藤健太郎氏が世の中に存在する様々な「数字」のヒミツを分析します
歯科医は、患者の顔を見て誰だか思い出せなくとも、歯を見ると「ああ、あの人か」とわかるという。プロが長年の経験で培った感覚は、一般人の想像をはるかに超えるものだ。
またベテランの自動車整備工は、車のエンジン音を聞いただけで誰の車か判別でき、整備履歴を思い出す。ピアニストは鍵盤に触れた瞬間、過去にそのピアノで演奏した曲や、客の反応がまざまざと甦る、といった話を聞く。膨大かつ濃密な経験を積んできた人にとって、特定の刺激は過去の記憶を呼び覚ますトリガーとなるようだ。
化学の研究者出身である筆者の場合、それは化学構造式ということになるだろうか。構造式に僅かでも誤りがあるとどうにも違和感を感じて、いたたまれないような気持ち悪さを覚えてしまう。また特定の構造を見ると、その化合物を扱っていた時期のことが脳裏によみがえったりもする。
先日は、ヘリオトリダンという化合物の構造が目に入り、学生時代のことを懐かしく思い出した。この化合物の合成が、筆者の大学院生時代の研究テーマだったのだ。単純な構造で、大した機能があるわけでもないため全く有名ではないが、筆者にとっては思い入れが深い化合物なのである。
その構造式を眺めているだけで、ああ、あの反応条件ではうまく行かなかったんだよな、このへんの検討をしている時に教授に呼び出されて大目玉を食らったんだったなど、よい思い出、苦い思い出が脳裏をよぎってゆく。今から31年前、まだバブルの残り香が漂う東京で遊び回る同級生たちをよそに、筆者は朝から晩まで悪臭のきつい研究室に閉じこもって、ひたすら実験を繰り返していた。こんな役にも立たない化合物を必死に作って一体何になるのか、とんでもなく無駄なことに大事な時期を空費しているんじゃないのかと、悩んだことも一度や二度ではなかった。結局筆者の研究は後輩に引き継いでもらってようやく完成し、たった2頁の論文となってマイナーな学術誌に掲載された。研究開始から合計783日間、これが俺の青春の結晶か、と苦笑いが洩れた。
科学という巨大なピラミッドに、新たな石を積み足すことは、かくもハードな作業なのか、ということだけは思い知った。そうした経験を経て、今どうにかこうして科学ライターとして飯を食えている。あの2年間にもそれなりに意味はあったか、と今は思う。
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