アテネに「栄光の架橋」がかかった日

刈屋 富士雄 NHK解説主幹
冨田 洋之 順天堂大学スポーツ健康科学部准教授
エンタメ スポーツ
2004年、オリンピック誕生の地・ギリシアのアテネで体操ニッポンの陽は再び昇った。最高の名勝負秘話を、体操男子代表エースと、当時実況をしたNHKの名アナウンサーが語り合った。

忘れられない栄光の瞬間

 冨田 ありがたいことに、オリンピックが近づくたびに、あの映像が繰り返しテレビで流れますね。

 刈屋 2004年アテネ五輪体操男子団体決勝。最終種目の鉄棒でエースの冨田くんが、28年ぶりの日本の金メダルを決めた瞬間だね。

 冨田 はい。当たり前ですが、僕は演技していたので、実況をしていた刈屋さんの“名言”は聞いていない。でも繰り返し映像を見たので覚えました。「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架橋だ」と(笑)。

 刈屋 ははは、それは妙な気持ちだなあ。今から36年前、僕は国民が感動するようなオリンピックの金メダルの瞬間を実況できたらいいなと思って、NHKに入局したんです。その夢が叶ったのがあの時でした。放送が終わった後に実況席から競技会場の天井の鉄骨の出っ張りを見上げながら、何とも言えない余韻に浸ったこと。今でも思い出すな。

 冨田 ただ、あの栄光の架橋の場面、私の着地はあまり綺麗には決まってなかったんです。力ずくで、なんとかとめた感じでした。もうちょっと、綺麗に決められたかな、と。

 刈屋 いや、逆にあれがいいんだよ! 少し上体が前のめりになったけど、バチッと着地して。そのまませりあがるように体を起こして、両手でガッツポーズでしょ。いつも冷静な冨田くんが一気に喜びを爆発させたあの表情は忘れられないよ。あれぞ、まさに栄光の瞬間(笑)。

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金メダルの瞬間

 冨田 確かにあの時はずっとうちに秘めていた重圧や責任感から解放され、気持ちが爆発した瞬間でした。ああ、終わったーっと、自然にガッツポーズがでたんです。

 私は2008年に引退したのですが、今年9歳と6歳になる2人の娘は私の現役時代を知らないんです。でも、テレビであの場面が流れると「パパだ!」って。私が日本代表として演技していた時の姿を見せることができて、また違った嬉しさがありますね。

 刈屋 ああ、そうか、綺麗な着地で娘にもっとカッコいいとこをみせたかったわけか(笑)。しかし、もしあそこで着地が乱れていたら、それでも金メダルは揺るがなかっただろうけど、視聴者の印象は全然違ったと思います。その後の得点発表が気になって、僕の実況なんて、すぐに頭から消えていったはずだから。

 冨田 刈屋さんの名実況が名実況ではなくなっていたのですか?

 刈屋 そのはずです。実況というのは不思議なもので、どんなに丁寧に綺麗に伝えているつもりでも伝わらない時もあるし、逆に日本語として破綻があっても、感動が視聴者に届くこともある。理屈じゃないんです、無責任な言い方だけど。

 冨田 よかったです。あそこでなんとか止まって(笑)。

復活といえるかどうか

 刈屋 決勝の2日前に行われた予選を日本はトップで通過しました。当時の代表メンバーは、冨田くん、キャプテンの米田功くん、現・男子強化本部長の水鳥寿思くん、塚原直也くん、鹿島丈博くん、中野大輔くんの6人。雰囲気はどうだったの?

 冨田 よかったですよ。予選1位で自分たちがやってきた練習や取り組みは間違っていなかったと自信を深めることができました。

 刈屋 ただ、当時はなんといっても中国が強かった。五輪の前年に行われた世界選手権は圧倒的な強さで金でした。予選は4位だったけど、きっと決勝に照準を合わせてくる。あの段階では、中国の金は堅い、日本はアメリカやルーマニアと銀メダルを争うというのが下馬評でした。

 冨田 はい。ただ決勝の前日、「このまま決勝がなくて予選の順位のままメダルをくれたらいいのに」と冗談を言ってましたが、基本的には皆が前向きでポジティブな言葉が多かったです。冨田はオオトリだから1番緊張するだろうと、冗談を言い合うぐらいの余裕もありました。

 刈屋 そんなことがあったんだ。少し補足すると、当時のシステムでは予選の順位で決勝の演技の順番が決まったから、予選1位の日本は最終種目の鉄棒を他のすべての国の演技が終了したあとに行うことになった。さらに決勝は「6─3─3制」といって、代表6名の中から各種目3選手が演技を行い、その3人の得点の合計がそのままチームの得点になるシステムだった。だから最終種目の鉄棒で3番目に演技する冨田くんは、メダルの色が決まる重要な場面を任される可能性が大きかった。

 冨田 そうですね。

 刈屋 僕もそのことに気づいていたんです。団体決勝の前日は、ビーチバレーの取材で、終わった後にたまたま会ったゼッターランド・ヨーコさんらとビーチでビールを飲んだんですけど、頭の中は翌日の団体決勝のことでいっぱいでした。

 冨田 何を考えてらしたんですか。

 刈屋 日本がもし仮にメダルを獲った場合に、何と表現するか。つまり、体操男子団体には1960年のローマ五輪から76年のモントリオール五輪までの「栄光の5連覇」がある。それからメダルは取りつづけたものの長く五輪で勝てない時期が続き、96年のアトランタは10位惨敗、次のシドニーで4位だった。そんな歴史を踏まえた時に、今回もし銅以上を獲った場合に「復活」と言えるかどうか。それをずっと悩んでいたんです。

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富田氏、刈屋氏

体操日本の陽は没した

 冨田 私たち選手には「復活」という思いはあまりなかったですね。私は1980年生まれで、栄光の時代をリアルタイムでは知らないんです。復活というよりはむしろ自分たちがアテネで金メダルを獲得し、「新しい時代」を作ってやるという想いが強かった。

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 刈屋 なるほど。「復活」という思いが強かったのは、選手より代表コーチの世代だったかもしれないね。僕はアトランタ五輪の時に体操女子の実況として現地に行ったんです。団体男子の決勝も観に行って、日本が惨敗した時に、ある国のコーチが「体操日本の陽は没した」と言ったんですね。それを聞いて僕は本当に悔しくて。もし再び日本が金メダルを獲ることがあったら「体操ニッポン、陽はまた昇りました」と言おうとその時心に決めたんです。

 冨田 実際に私の鉄棒の得点が出て、金メダルが決まったときにそのフレーズを使われていたんですね。テレビの振り返り番組で見ました。

 刈屋 ははは。変な話だけど、メダルを獲った時に「復活」と言えるかどうかは悩みに悩んだけど、もし金を獲った時に言う言葉だけは完全に決めていた。決勝当日の朝もパルテノン神殿のあたりを散歩しながら、復活かどうかってそのことをずっと考えていました。それからも色んなシミュレーションを頭の中でして、結局銅メダル以上の場合は「復活」を使おうと決めたんです。

 冨田 でも仮に銅でも優勝チームに圧倒的に離され、なんとかメダル確保というのもありえましたよね。

 刈屋 その時は復活への「第1歩」とか「手前」という表現にしようと(笑)。言葉に幅は持たせておくけど、いずれにせよ「復活」というフレーズは使おうと決めたんです。

驚いたのは中国の脱落

 刈屋 ところが、いざ決勝が始まったら、日本は1種目目の「ゆか」を終えた段階で8チーム中7位でした。そこで一瞬、4位だったらどうしようという考えが頭をよぎったんです。メダルを逃すという事態は、あの時まで考えてなかった。

 冨田 そうでしたか。自分たちは1種目目を終えた段階の順位はあまり気にしてませんでした。もともとチームとして得意ではない種目で、トップとの点差もさほど開いていなかった。むしろ驚いたのは中国が日本より下の8位だったこと。

 刈屋 確かにあれにはびっくりしたね。中国は4年後の北京五輪を見据えて若手を積極的に入れてきたのが、裏目に出てしまった。やっぱりオリンピックには独特の緊張感があるし、当時はアップなしでいきなり演技を始めなければならなかった。そこでいきなりミスを連発して。

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 冨田 逆に自分たちは選手にとってはマイナスでしかない、ノーアップで演技をするという状況を、いかにプラスに変えるかを考えて練習してきました。ゆかで演技した塚原さん、米田さん、中野、3人とも繊細に感覚を研ぎ澄まして、不利な条件下でも自分自身の演技ができるようになっていたんですよ。

 刈屋 へえ。それぐらい各選手しっかり仕上がっていたということでしょう。以前、米田くんに聞いたことがあるけど、あの時は「仮に深夜にたたき起こされ、今から本番と同じ演技をやれ」と言われてもノーミスでこなせる自信があったって。

 冨田 そういう意識は、選手全員が持っていたでしょうね。事前にやれることはやりつくしたという。

 刈屋 なるほど。冨田くんは2種目目のあん馬から出たわけだけど、会場の雰囲気は気にならなかった? 序盤はまだ、客席も半分ぐらいしか埋まっていなくて、凍りつくようなシーンとした様子でした。

 冨田 そこはあまり気にならなかったですね。やっぱり1番大変だったのは最初のゆかだったのではないでしょうか。よくあの3人がその重圧を乗り越えてくれたと思います。

 刈屋 そうだね、確かに最初でつまずかなかったことで、日本は順調に得点を伸ばし、序盤の3種目を終えて2位に。一方の中国は完全にメダル圏から外れてしまった。こういうことを実況で言うと、視聴者からお叱りを受けるからダメだけど、正直、中国が脱落した時は「やったー」という気持ちでした(笑)。

格が違った日本の演技

 刈屋 冨田くんは最初のゆか以外の5種目で演技をしましたが、ほぼノーミスの素晴らしい演技でした。

 冨田 すごく調子がよかったんです。例えば、あん馬はすごくデリケートで、少しバランスを崩すだけで落下に繋がる種目ですが、あの日はちょっとのズレぐらいならすぐに修正できる。落下はないと思えたんです。それぐらい調子が良かった。

 刈屋 あの時、解説を担当した小西裕之さん(88年ソウル五輪団体・銅)がよく言っていたのは、日本の演技は「格が違った」。技をすべて自分のものにしているから、高難度の技も難しそうに見えず本当に綺麗でした。日本が標榜してきた「美しい体操」というのはアテネで完成したと僕は思うな。だから、僕は冨田くんの吊り輪の演技を「リビングでくつろいでいるようだ」と表現しました。それぐらいリラックスした表情で、凄くキツイことを難なくこなしていた。

 冨田 ありがとうございます。あの時は、大きなミスはしないだろうという絶対の自信がありましたね。

 刈屋 その後、日本は上位をキープして、最終種目の鉄棒の前に、1位ルーマニア、2位日本、3位アメリカの3国がわずか0.125点差でひしめく大混戦になった。

 冨田 はい。こんなこともあるのだと割と冷静に見てましたけど、会場の熱気は凄かったですね。

 刈屋 うん。その頃には会場も満杯になって、みんなメダルが決まる最後の演技を固唾をのんで見守っていた。アメリカの演技後に起こった「USAコール」は地響きのように鳴り響いていたものね。しかし、結局ルーマニアもアメリカも鉄棒でミスが出て、思ったような得点が出なかった。一方の日本は1番目の米田くん、次の鹿島くんが見事な演技で冨田くんに最後のバトンを託した。

 冨田 私は米田さんや鹿島の演技を下から見守っている時に1番緊張しましたよ。このままじゃ自分の演技どころではないぐらい心臓がバクバクしてきたんですけど、鹿島が離れ技を決めたのを見届けて、自分に集中しました。お客さんの顔をちゃんと見ることができたら、大丈夫だと思って、会場全体を見渡し、自分の体がどう動いているか、感覚におかしな部分はないか一個一個確認するうちに、あ、これならいけるなという心理状態になっていました。

 刈屋 さすが日本のエース(笑)。僕はもう実況席でソワソワしっぱなしだったよ。米田くんの演技が終わった時点で、僕は「メダルは間違いない」と確信した。そして「復活」という言葉を、いよいよ使えるなと思ったんですね。

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source : 文藝春秋 2020年1月号

genre : エンタメ スポーツ