筒美京平、高田賢三、井出孫六、坂野潤治、エディ・ヴァン・ヘイレン

蓋棺録

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偉大な業績を残し、世を去った5名の人生を振り返る追悼コラム。

★筒美京平

 作曲家の筒美京平(つつみきようへい)(本名・渡辺栄吉)は、時代への感覚を研ぎ澄まし日本のポップミュージックをリードした。

 訃報がメディアを駆けまわり、筒美が作曲した歌が次々に流れると、熟年以上の日本人は、そのメロディの多彩さに驚いた。同時に多くの曲が、自分の若かった日々の「バックミュージック」だったことに気づいた。

 1940(昭和15)年、東京の神楽坂に生まれる。母の影響で霊南坂幼稚園に通っているときピアノを習い始める。小学、中学、高校と青山学院で学び、同大学時代にはジャズのサークルに出入りし、銀座のバーなどでピアノを弾いていたという。

 大学卒業後、日本グラモフォン(現・ユニバーサルミュージック)に入社し、洋楽のディレクターとなる。作詞家の橋本淳に紹介されて、作曲家すぎやまこういちの自宅に出入りするようになり、手伝いでB面の曲を即興的につくったこともあった。

 67年、作曲家として独立。同年、ヴィレッジ・シンガーズの『バラ色の雲』で注目される。68年には、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』が大ヒットし、新鮮なリズム感と物憂いメロディが評価され、翌年のレコード大賞作曲賞を受賞した。

 以降、レコード大賞を受賞した尾崎紀世彦の『また逢う日まで』(71年)、南沙織の『17才』(同年)、郷ひろみの『よろしく哀愁』(74年)、岩崎宏美の『ロマンス』(75年)など、次々とヒット曲を世に送り出した。太田裕美の『木綿のハンカチーフ』(同年)は、語りかける手紙のような歌詞にリズミカルな曲を与えて賛嘆される。

 80年代にも、近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』(81年)、早見優の『夏色のナンシー』(83年)、小泉今日子の『なんてったってアイドル』(85年)、少年隊の『仮面舞踏会』(同年)など、歌手と歌詞に絶妙にフィットする曲を作り続けて、同業者たちを驚嘆させ、ファンを酔わせた。

 最大のヒットはジュディ・オングの『魅せられて』(79年)で、シングル盤の売り上げ124万枚を記録し、2度目のレコード大賞と5度目の同作曲賞を受賞している。シングル盤の総計は7560万枚で歴代トップ、全部で約3000曲を残した。

 雑誌や新聞での取材は多かったが、口にするのは音楽のことで、自分の話はしなかった。その一方で趣味が多く旅行好きで、身の回りに細心の注意を払い、ジャケットもオーダーメイドでお洒落にスキがなかったという。

 何度も「作曲の仕事をどう思ってきたのか」と聞かれたが、「ぼくのような職業作曲家は、好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット曲を作ることが使命」と繰り返し答えている。(10月7日没、誤嚥性肺炎、80歳)

★高田賢三

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 服飾デザイナーの高田賢三(たかだけんぞう)は、フランスで独自のブランド「KENZO」を立ち上げて、ファッションの新しい時代を開いた。

 1970(昭和45)年、パリの一角でブティック「ジャングル・ジャップ」を開店する。原色を配して、花柄を使い、直線のカットを導入した衣服がパリっ子を魅了。パリ・コレクションでも新時代の代表的デザイナーとみなされるようになる。

 39年、姫路市に生まれる。7人兄弟の3男。父は電力会社の社員だったが脱サラで待合「浪花楼」を経営していた。この屋敷にはたくさんの着物や小物を入れている納戸があり、そこで遊ぶのが好きだったという。

 少年時代には、姉たちが持っているスタイル画を見て絵を描き、一緒に人形を作ったこともあった。姫路西高校時代には芸大に行きたかったが、没落していた実家の経済状態を考えて、神戸市外国語大学の夜間部に進学する。

 ところが、貿易会社で働きながら大学に通っているうち、文化服装学院が男子生徒を募集し始めたことを知る。58年、同学院に入学して、60年秋にデザイナーの登竜門「装苑賞」を受賞し、卒業後は服飾メーカーで働いた。

 東京オリンピックのあった64年、住んでいたアパートの改築にともない、立ち退き料25万円が手に入る。当時としては大金で、このお金を持って船でパリに向かった。「6カ月くらいは滞在できるだろうと思っていました」。

 しかし、あっという間に所持金を使い果たし、デザイン画を描いてブティックにもっていくと、いい値で売れた。これが切っ掛けとなり、やがて自分のブティックを開店。女性誌『ヴォーグ』が取り上げたのでKENZOは世界中に知られるようになる。

 パリで活躍し始めたころは、プレタポルテ(高級既製服)の興隆期で、賢三は日本の布地や柄だけでなく、エスニックな要素を取り入れ、新時代を牽引した。ポシェットを考案したのも彼だといわれる。パリに大邸宅を建てた87年ころが最盛期だった。

 93(平成5)年、経営に行き詰ってKENZOのブランドはモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン社に売却し、経営から手をひくこととなる。不祥事が重なったが、「あるお金は全部つかってしまう」という性格が何より災いした。99年にはデザイナーとしての契約も解消し、KENZOとは決別している。

 2016年にレジオン・ドヌール勲章を受章。今年、新ブランド「K3」を立ち上げたばかりだった。(10月4日没、新型コロナウイルスによる合併症、81歳)

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source : 文藝春秋 2020年12月号

genre : ニュース 社会