英エコノミスト誌記者「イラン幽囚記」 最終回

ニコラス・ペルハム 英エコノミスト誌中東特派員
ニュース 政治 国際
「友人は『トラウマを抱えた人質』と呼んだが、むしろ私は、単純にテヘランでの生活を楽しんだ」
ニコラス・ペルハム
 
ペルハム氏

最大のユダヤ教社会へ

 しかし私は行かなかった。午後1時までペルシア語教室があったからだ。また、礼拝に行くことの危険性を感じたからだった。とりあえず眼鏡を新調するための「調査」を継続することにした。

 すると同じ通りに、今まで気づくことのなかった扉があることを発見した。入口をくぐり、階段を2階まで上った。色彩の施された巨大なメノーラー〔ユダヤ教の祝祭日に使われる7本枝の燭台〕の前を通り過ぎ、シナゴーグへと足を踏み入れた。

 中ではラビが、男性のみの聴衆に向かって話をしていた。私はじりじりと前へ進んだ。シーア派の最高指導者アーヤトッラほどはあろうかと思われるほど長いもじゃもじゃ髭の男がメロンとケーキを持って、にこにことゆっくり歩み寄ってきた。この男は、「ダニエルです」と自己紹介をした。

 その日から3週間、ダニエルがイスラム教世界において、最大かつ最も活発なユダヤ教社会へと私を招き入れてくれた。

 アーヤトッラがイラン国王を失脚させてからというもの、8万人だったイランのユダヤ人人口は、その10分の1ほどに縮んだ。アーヤトッラらは残されたユダヤ人を守ってきたが、ユダヤ人――特にイランから逃れたユダヤ人――の資産の一部を没収してきた経緯もあった。

 イランのユダヤ人とイラン政権の間に走る緊張感は、イランとイスラエルの関係性にともなって強まったり弱まったりする。しかしイスラム共和制は、おおかた、ユダヤ人社会と気楽な関係を築くようになったようだ。

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イランのシナゴーグ

 イランには22の「ミクヴェ」――ユダヤ教で水に浸かる儀式で使用される水槽――が存在する。テヘランに十数カ所は存在する活発なシナゴーグは、どれも巨大で、多くの信者で溢れていた。ダニエルのシナゴーグでは、毎日、午前中だけでも4回もの礼拝が開催されており、ダニエルは、私の参加を促すかのように熱心に説明をしてくれた。

 テヘラン南部のユダヤ人比率は5%未満だが、地域にはユダヤ人社会の資金で建てられた産婦人科病院やユダヤ系カフェ、コーシャ〔ユダヤ教徒が食べてもよい「清浄な食品」〕料理屋2軒が存在した。またユダヤ系のスポーツ・センターも建設途中だった。

 朝にはしばしば、ダニエルから「シャカリット(朝の礼拝)に参加するか」と携帯電話のテキスト・メッセージが送られてきた。また午後になると夕方の礼拝「マアリヴ」に出席する予定に変わりはないか、と連絡が入った。

 私が初めてダニエルに会ったシナゴーグの地下には、まるで洞窟の中にあるようなコーシャ料理店がある。常に混雑しているのだが、そこではよく夕飯をごちそうしてくれた。人々は「シャローム・バシド〔どうか平安でいてください〕」と、ペルシア語の挨拶にヘブライ語とイディッシュ語を混ぜた。

 この2週間にシナゴーグで予定されていた6つの結婚式の一つに参加した。

 スパンコール付の服を身にまとった女性はキラキラと輝き、高いピンヒールで男性より背が高くそびえたっていた。ベールをかぶった女性は、ほぼ見当たらなかった。各テーブルには幾つかの透明なペットボトルが置かれ、中には「シュナップス」〔無色透明でアルコール度数が高い酒〕もどきの蒸留酒が入っていた。

 前菜が終わると、結婚式場が瞬く間にディスコへと様変わりした。老若男女を問わず、ペルシア語やヘブライ語の音楽に合わせて踊った。フラッシュがそこかしこで瞬き、火花が散った。その場では、イスラム共和制が遠い存在に感じられた。

 ユダヤ人社会は身の守り方を知っていた。「ユダヤ人委員会」の英語版ウェブサイトでは、今でも2008年のガザ紛争におけるイスラエル政府の残虐行為が非難されていた。

 シナゴーグの内部はどこもユダヤ教のシンボルで装飾が施されていたが、外部の壁には飾りはなく、安息日にもドアはほぼ閉じていた。ダニエルと彼の息子たちはスカルキャップを被ったまま歩いて帰宅していたが、見知らぬ人と目が合わないようになるべく地面を見て歩いた。

 この「家族」ともいえる共同体への帰属意識は、私の拘束生活の超現実性を増幅させたと同時に、私を元気づけてくれた。

 めったにない偶然であったが、この年ムハッラム月の初日とユダヤ教の「スリホット」――神の赦しのために大祭日までの1カ月間行われる共同の祈り――の初日が被った。

 シナゴーグは超満員だった。イラン最大のシナゴーグは、午前1時になっても家族連れで溢れ返っていた。午前2時になると、人々はイスラエルおよびイスラエルの民のために祈りながら体を揺らした。集団で胸を打ち付ける行為は、フセーニヤ〔イランの礼拝堂〕で見られたものよりは穏やかではあったが、西洋で見られるものに比べ熱烈であった。

 女性たちは聖櫃に近づいていき、メノーラー〔燭台〕やダビデの星などが描かれたイラン中央部エスファハーン製のなめらかなタイルに接吻をした。まるでシーア派の巡礼者たちが祈りをささげるような姿である。

 外では人々がシナゴーグを取り巻きながら世間話をしていた。私の隣で身体を揺らしながら祈っていたダニエルの顔が勝ち誇ったようにほほ笑んでいた。私が「赦しの祈り」をかなりの確信を持って唱えたからに違いなかった。

 捕虜になって6週間が過ぎた頃だった。アリからの電話で、テヘラン中心部のヴァナク広場で会おうと言われた。

テヘランの市場
 
経済制裁下でも賑わうテヘラン市内のバザール(市場)

長引く拘束

 いつも通り遅刻してきたアリの車に乗り込み、公園へ行った。こうして久しぶりに2人でいると、ちょっと前に時計の針が戻ったような気がした。車から降りると、共にテヘラン北部の2つの丘陵地を繋ぐ歩行者専用の橋のたもとへ向かって歩いていった。

 アリが、今の状況が長引き過ぎていることを私に謝った。革命防衛隊は私の父親が病気であることを知っていた。そしてアリも、私に「早く家族の元へ戻ってほしいと願っている」と言った。しかし彼の上司は未だに私に疑いを持っている、と締めくくった。彼は「上司を説得してみる」と言ったが、私の出国ビザが整うのは「まだ先だと思う」と言った。

 アリは単に職務を遂行しているだけだった。ここで裏切られたと私が感じる方が間違っていることは、重々承知していたつもりだった。

 しかし9月になろうとしていたその頃、私の考えも徐々に変わってきていた。イランに対する私の関心がここへきて初めて薄れた。

 どのカフェも同じに見えた。訪問していない美術館や博物館もなくなっていた。ペルシア語を学ぶために大学に願書を提出する際にパスポートが必要だということが分かった時も、革命防衛隊は何も手助けをしてくれなかった。

 息子の9歳の誕生日のために妻と長い間楽しみにしていたお祝いにも参加できなかった。私は一日の大半を部屋で過ごし、夕飯なども一人で食べるようになった。

 私の精神状態は、イランの新聞の見出しによって日々、左右されるようになっていった。「イランは対決を望まない――ザリーフ〔イラン外相〕、ジョンソン〔イギリス首相〕への書簡」と、このような見出しが出た日は、私の気分が比較的晴れやかになることを意味していた。「国会、英国から石油マネーを取り戻すことで一致」といった日は、どんよりとした気持ちで一日を過ごした。

 アリとの公園での散歩は、事態を収束させたわけでは全くなかった。その後数日して、アリからまた連絡があった。再び、革命広場の南に面した尋問室に来るように、ということだった。

 私が尋問室に入ろうとしたその時だった。携帯が鳴り、アリから「中に入るな」と一言のメッセージが入った。その一言以外、説明はなかった。アルービ大佐との面会

 3日後の9月4日の朝、私はいつも通りホテルでヨーグルトとナツメヤシというお決まりの朝食を食べていた。すると携帯電話にアリからメッセージが入った。出国ビザがテヘラン中心部の出入国管理事務所に行けばあるという。「今すぐ行け。着いたらアルービ大佐に会いに来たと伝えろ」とあった。「でも私のパスポートはどこにあるのか」とアリに聞いた。「ホテルが預かっている」と、あたかも「当たり前だろう」と言わんばかりの返答ぶりだった。

 私は何週間も、パスポートを要求してきた。ところが今朝、レセプションへ行ってみると、毎朝対応をしてくれていたスタッフが裏の部屋へと姿を消し、手には見慣れたおんぼろの赤いパスポート(あまりにもぼろぼろで表紙の「GREAT BRITAIN(イギリス)」という文字がかすれて殆ど見えなくなっていた)を持って出てきて、私に手渡した。今までずっとここに保管されていたのだろうか。

 出入国管理事務所には、ガラス張りのカウンター越しに週末前〔イランの週末は木曜、金曜〕までに書類を作成してもらおうとする人々の長蛇の列ができていた。

 アルービ大佐との面会を申し出ると、脇の事務所へと案内された。大佐は出て来るや、「きちんとした手続きを踏まなければならない」と言い張った。出国ビザは発行するが、私が滞在期間を超過したため、私の出張を支援した機関の承諾が必要だという。大佐は滞在が超過した理由が革命防衛隊による拘束だという事実を知ろうとする気もなく、あるいは知ったところで考慮するに値しないと思っているようだった。「しかし、私は出国の公式承認を得ています」と抗議した。「どなたからでしょうか」と彼は聞き返した。

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革命防衛隊のライバル組織

 その場でアリに連絡をとったが、電話口に出てこなかった。革命防衛隊は、私を拘束した事実を認める気がないようだった。時刻はすでに午前11時を回り、出入国管理事務所はあと3時間で閉まってしまう。

 大佐は「本日中にビザが欲しいのなら、あなたのスポンサーに急いでもらう必要がありますよ」と勧めてきた。

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source : 文藝春秋 2020年12月号

genre : ニュース 政治 国際