「君たち、悔しくないのか」
2018年、第11回朝日杯将棋オープン戦。当時まだ中学生だった藤井聡太五段の優勝を受け、谷川浩司九段(58)は他の参加棋士たちに奮起を促した。史上最年少の14歳2ヶ月でプロ入りするやいなや、数々の新記録を打ち立ててきた藤井氏。2020年は最年少での二冠(棋聖、王位)を達成し、その快進撃は止まらない。同じく中学生でデビューし、37年前、21歳2ヶ月にして最年少名人の座を手に入れた谷川氏もまた、若いうちからその絶対的な強さで一時代を築き上げてきた。
「神の子」とも称される藤井二冠の躍進を、「光速の寄せ」谷川九段はどう見るのだろう――。
谷川氏(将棋棋士)
泣きじゃくっていた藤井君
私が初めて藤井君に会ったとき、印象的だったのは、盤に覆いかぶさって泣きじゃくっている姿です。2010年、彼が小学2年生の時に名古屋で行われた将棋イベントでの指導対局中のこと。私の玉が藤井陣に入り込み、彼が劣勢になったところで引き分けを提案すると、まだ8歳の少年が悔しさに号泣したのです。大泣きし、手に負えなくなったのをよく覚えています。
藤井氏(将棋棋士)
棋士というのは誰でも負けず嫌いなものですが、彼はとりわけ、誰にも負けたくない、そのためにとにかく強くなりたいという気持ちが非常に強い。インタビューでもタイトルを獲りたいというような具体的な話はあまりしません。将棋が奥深く難しいことをあの若さでわかった上で、将棋を極めるというところに近づこうとしているのだと思います。
特に棋聖戦での一手には驚かされました。渡辺明棋聖に2勝1敗で迎えた第4局。優勢になって勝ち方がいくつかありそうな局面で、一見一番危なそうな、読みに間違いがあれば自分の玉が詰むかもしれないという手で勝ったのです。あと1勝で棋聖というところでもう少し安全な一手を選ぶかと思ったのですが、あの局面からは、彼にとってはタイトルよりも、純粋に強くなることの方が大切なのだということがひしひしと伝わってきました。
羽生に重なる正統派将棋
藤井二冠はまだ18歳ですが、あの若さにして、すでに棋士として完璧に近いと思います。負けん気の強さに集中力、絶妙な時間の使い方と、何より将棋への飽くなき探求心がある。
彼にとって初めての2日制、持ち時間8時間の王位戦。私は第1局で立会人を務め、2日間とも対局を見守ったのですが、持ち時間の使い方には目を見張るものがありました。急所の局面ではたっぷり時間を使って考える。そこでひとたび方針を決めてしまえば、その次はあまり時間を使わず、また岐路に差し掛かったところで時間をかける。
実は、棋士が奨励会からプロ入りして一番戸惑うのが持ち時間なんです。それまで90分だったのが、急に5時間、6時間となる。最初はなかなか時間を使い切らずに負けてしまうことが多くて、1、2年かけてだんだん慣れていくものなのですが、彼はなぜだかデビュー当初から長い持ち時間に対応できていた。これが不思議で仕方ないのです。
私は彼と、去年、今年と2度公式戦で戦い完敗しました。そのときの集中力は、並のものではありませんでした。順位戦では最も長い、持ち時間6時間の対局。中盤で互いに1時間半くらいの長考があったのですが、その間も藤井二冠は一切集中が途切れない。いくらプロ棋士でも、1時間も考えていると少し休みたくなるものですが、彼は長考の応酬のような局面が続いてもずっと盤の前に座って前傾姿勢で読み続けるんです。
そうやって、じっと考え抜く力が素晴らしい。昭和の時代は、とにかく盤の前に座ってからが勝負というところがありました。けれど1世代下の羽生善治九段ら平成の時代になると、事前の準備を念入りに行うようになり、序盤の体系化が進みました。ただその流れにおいても、羽生さんや佐藤康光九段、郷田真隆九段などは、考えても結論の出ない序盤から1時間、2時間考えるということをしていたんです。時間の長いタイトル戦のときは特にそう。そうして考えた一手が、たとえその対局では意味をなさなかったとしても、若いうちからの考える時間の積み重ねが、彼らが50歳を迎える今なお活躍を続けている理由だと思います。
藤井二冠の将棋は正統派で、羽生さんに重なるところがあります。序盤から考え、相手が得意で自分があまり経験のない形に飛び込む。そうやって、相手の豊富な知識を自分のものにしようとする貪欲さ。長く活躍する棋士はみなこれを持っています。羽生さんの場合は根底に好奇心がありますが、藤井二冠の原動力も同じではないでしょうか。事前の準備をいくらしても、実際の対局で自力で考えて出す結論にはかないませんから。
藤井将棋は、負けた対局でも光ります。彼は形勢が態度に出るタイプで、苦しくなるとうなだれます。けれど決してあきらめてはいない。勝負手を考えているんです。どうすれば逆転できるか、複雑な局面に持っていけるかということを、うなだれながら必死に考えます。大差で負けることはないし、負け将棋でも見せ場を数多く作る。決して相手を楽には勝たせません。
革靴はまだ履かない
つい先日、大阪でB級2組の順位戦があり、藤井二冠と将棋会館で会いました。大人びた和服姿も印象的ですが、その日はスーツに黒いスニーカー姿。まだ革靴を履いていないんです。それを見てハッとしました。完璧な将棋を指すので普段は忘れていますが、高校生なんですよね。
今年4月、5月。対局ができなくなり、学校も休みになって家で自分の将棋を見つめ直した2ヶ月間で、彼はまた一段と強くなったと思います。読みがさらに鋭くなったのはもちろん、ギアチェンジがうまくなりました。指し回しに緩急をつけ、自分でペースを作る。これも羽生さんが得意とするところです。
たった4年でここまで強くなることも信じられませんが、その間ずっと世間に注目され続けるというのもなかなかない。他の棋士が時間をかけてもなかなか経験しないことを、この4年間で凝縮して味わっているんです。ある意味、すでに10年選手と言ってもいいくらいなんですよね。
二冠達成の快進撃が続いたことで、これからはトップ棋士たちとの対局も増えてきます。ライバル棋士たちは藤井包囲網を巡らせるでしょう。低段のときには予選も含めた勝率が8割を超えていましたが、今後トップ棋士ぞろいの対局で8割勝たれてしまうと、先輩棋士はたまらないでしょうからね。彼らは、藤井二冠がこれまであまり経験したことのない戦法で勝負を仕掛けてくると思います。さらに、やはり藤井二冠の終盤力には一目置いているので、序盤を飛ばし、終盤戦で少しでも持ち時間を多くすることで互角に持っていこうとするでしょう。その中でどう戦っていくかが見どころです。
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source : 文藝春秋 2021年1月号