2020年春。緊急事態宣言が発令された。「ステイホーム」の呼びかけにより、街から人が減り、陸上競技場は閉鎖された。公務員のまま走っていたならば、異様な社会の雰囲気の中で走れなくなっていたかもしれない。しかしプロランナーにとって走ることは仕事。緊急事態宣言下でも出勤していた人達と同様に「仕事を辞めるわけにはいかない」という理屈が成り立った。とはいえ、普通に街中で行なっていたランニングも人目を避けて、時間や場所を選んで行わざるを得なくなった。広い河川敷でのゆっくり長く走る練習が中心となった。
市民ランナーの頃から「レースは最高の練習」という考えの下で、毎週のように国内外に遠征していた。さらなる自分自身の可能性を求め、公務員の職を辞して決断したプロ転向以降は、講演やイベントでも日本中を飛び回るようになっていた。競技面でなかなか結果が出ないことが心に引っ掛かりながらも、マラソン中心の遠征・出張生活は非常に充実していた。しかし、その生活はコロナ禍によって一変した。数か月先まで決まっていたレースも講演もイベントも全て中止や延期となったのだ。結果として、練習以外ではほぼ自宅から出なくなり、それまでの生活とは一転して、公共交通機関も自家用車も全く利用しない引きこもり生活が数か月間続くこととなった。
6月中旬に県境をまたぐ移動が解禁されてからは、それまで自宅近辺に閉じ込められていた鬱憤を晴らすように涼しい高地や北海道での長期合宿を繰り返した。ほぼ全てのスケジュールが白紙となったため、6月下旬から9月中旬までほぼ合宿を入れることができたのだ。緊急事態宣言時とは一転して、ほとんど自宅に戻らない生活となった。合宿先で大自然の中を走っていると、都市部で人の目を気にしながら走っていた数か月間に積もり積もった閉塞感が解き放たれていくようだった。
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source : 文藝春秋 2021年5月号