頭をかき回される刺激
これから成田へ? と聞きたくなるような大きなキャリーバッグに本をぎっしり詰めて、がらがら引きながら教卓に向かう姿。夜半の事務所でパイプ椅子にななめに座って、紙コップでワインを飲みながら、学生たちの勝手な議論を聞くともなく聞いている姿。わたしがいま思い返す立花さんが、立花隆という全人格の何割だったのか、何%だったのかはわからないが、19歳のわたしには質も量も膨大な時間だった。
1996年4月、東京大学教養学部ではじまった立花隆の講義は、毎週3時間轟音で流れ落ちる滝だった。25年を経て、今年その一部が新書として刊行されたが(『サピエンスの未来 伝説の東大講義』講談社現代新書)、400ページにおよぶこの本の内容は、講義であつかった時間にすると30分ほどにすぎないといえばわかっていただけるだろうか。武満徹からヴィトゲンシュタインへ、対称性の破れからジャスパー・ジョーンズへ、出てくる名詞は知らないものばかりでも、それぞれが本質的な価値をもって現代の知の世界をつくりあげている重要なアクターだということだけはビンビン伝わってきた。
立花氏
当初、立花さんには、この小生意気な学生たちがいかほどのものか見てやろうという構えがあったように思う。いっぽうわたしたち学生は、当時の秘書佐々木千賀子さんの仲立ちのもと、立花さんにひたすらまとわりついた。毎週頭をぐるんぐるんにかき回されるのが楽しくて、この刺激はほかの場では得られないことがわかっていたからだ。
講義は夏学期のみの予定だったが、夏学期が終わらないうちに、学生が調査して書く活動を中心に据えた授業がはじまることが決まった。この活動「立花ゼミ」は書籍『20歳のころ』『環境ホルモン入門』『新世紀デジタル講義』などの成果を生みながら、途中からは大学を離れ、2000年までつづいた。わたしが直接知るのはここまでだが、立花さんはその後も東京大学、立教大学で、老若を問わず学生を指導している。
ボーダレスな講義の衝撃
さて、東京大学は当時すでにめずらしくなっていた前期課程をもち、実は1・2年生は自分の進学する分野を完全に定めているわけではない。そこでこんなボーダレスな講義に殴られてしまった学生たちは、それぞれのやり方で人生を狂わせた。わたしを例にすれば、専攻するはずだった法学に関心を絞り込むことがどうしてもできず、在学年限ぎりぎりまでかかって卒業したのち、紆余曲折を経て出版業界の片隅で生きている(※極端な例です)。仕事でかかわる本の一冊一冊に、あのとき立花さんがわたしをひっくり返してくれたようなあの刺激を求めてしまう。優秀なる「立花ゼミ」の仲間たちも、一見順調にキャリアを重ねているようでも、内心に立花さんを住まわせ、大勢になじまないなにかを抱えているように思える。
東大での講義
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source : 文藝春秋 2021年8月号