「このままでは野党転落」党内にガスが充満する中、ついに前首相も……
「俺はコロナに勝ったんだ」
復興五輪でもなければ、人類がコロナに打ち勝った証しでもない。首相の菅義偉が唱えた「安心安全」の空念仏は選手や関係者の相次ぐ感染で泡と消えた。国民は五輪の高揚感に浸り、ワクチン接種も浸透。その余勢を駆って、秋の衆院選に勝利する——政権の皮算用はもろくも崩れ去り、祭りの後の寂寥感が日本を覆う。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。約1年前、70%前後の高支持率を背に船出した菅政権は泡と消えるのか。
「きょうの会見、良かっただろ?」。7月8日夜、菅は東京都に4回目の緊急事態宣言発令を決めた直後の記者会見を終えて執務室に戻るなり、秘書官たちにいきなり同意を求めた。
緊急事態宣言の再発出により、菅がギリギリまで拘った有観客での五輪開催は断念を余儀なくされた。これで政権の皮算用に赤信号が灯ったが、菅は現実を認めたくなかった。NHKのゴールデンタイムで国民に呼び掛ければ、支持率は反転するはずだ——秘書官らへの問いかけは、そう自らに言い聞かせるものだったのだろう。
この会見で菅は7月中に全国民の4割が1回目のワクチン接種を終える見通しであると表明した。だが、五輪開催で感染者が増加した場合の責任といった厳しい質問には「安全安心の大会を実現」と同じフレーズを繰り返すばかり。メディアの世論調査では内閣支持率が軒並み過去最低となり、時事通信の調査では30%を割り込んだ。
それでも菅は強気の姿勢を崩さない。「無観客だろうが、とにかく五輪の開催にこぎ着けたこと自体が勝利なんだ。俺はコロナに勝ったんだ」。五輪開幕の直前、菅は側近に言い放った。関係者は「日本がメダルを量産すれば過去の問題など吹き飛んで支持率は回復し、総選挙に勝利できると思い込んでいる」と菅の心中を推察する。
だが、そんな菅の思いとは裏腹に、首相官邸の崩壊は進行している。
7月6日、菅は政務担当の首相秘書官に自らの議員事務所の秘書である新田章文の再起用を決めた。新田は昨年9月の内閣発足と同時に政務秘書官に就任したものの、わずか3カ月余で議員事務所に戻され、財務省出身で菅の官房長官時代に秘書官を務めた寺岡光博が政務秘書官に登用された。それを半年余りで再び新田を官邸に呼び戻し、寺岡もそのまま留任させた。首相秘書官は過去最多の8人に膨らんだ。
菅首相
秘書官すげ替えで官邸崩壊
政務秘書官は「首席秘書官」とも呼ばれ、首相を支える秘書官室を束ねる首相の側近中の側近。安倍内閣では経産省出身の今井尚哉が安倍の全面的な信頼を得て力を振るい首相を支え続けた。だが菅は政務秘書官が2人という前代未聞の体制を取り、外部からは誰が本当の首席なのかも定かではない。「首席秘書官失格」の烙印を押された形の寺岡は当然、不満を募らせ、周辺に「懸命に首相を支えてきたのに……」と菅への不信感を隠さなかった。
首相秘書官といえば、6月下旬、官房長官秘書官を含めて連続8年半という異例の長期にわたって菅を支えてきた門松貴を突如、出身の経産省へ戻す人事も決定された。門松は菅の最もお気に入りとされ、日課となっている朝の散歩に必ず同行して「菅の精神安定剤」とまで言われてきた。
その門松の交代は、経済政策などを巡って珍しく菅に意見したところ、菅の不興を買ったことがきっかけとされる。その門松も経産省に戻ると、親しい官僚仲間に「首相には国家観もなければ、経済に関する知見もセンスもない」と強烈な批判をぶちまけている。
今年1月の寺岡の政務秘書官起用に端を発する秘書官の交代劇は、麻生太郎副総理兼財務相への配慮との見方もある。長年、首相秘書官は各省の局長級の官僚が務めてきたが、菅は自らの官房長官時代に秘書官を務めていた課長級の秘書官をそのまま持ち上がりで首相秘書官に据えた。それが霞が関に対する政権のグリップを弱くさせているとして、麻生は秘書官の交代を菅に求めていたからだ。だが、場当たり的な秘書官のすげ替えが、最も近くで首相を支える秘書官室の一体感を大きく損なったことは言うまでもない。
「官邸崩壊」——第1次安倍内閣で人口に膾炙した言葉が蘇る。根本的な原因は、他人の意見を聞かず、意に沿わない進言をする者には拳で机を叩きながら怒鳴り散らす菅の強権体質と猜疑心の強さにある。それゆえ、近くには「イエスマン」を置きたがる。細田派の幹部によれば、昨年9月の組閣人事で、官房副長官時代、菅とも官房副長官(事務)の杉田和博とも関係が良好で官房長官の最有力候補と言われた萩生田光一ではなく、「役人以上に役人」と揶揄される加藤勝信を官房長官に据えたことも「イエスマンが好きな菅ならではの人事」と永田町関係者は嘲笑しているという。ただ、その加藤ですら、今や菅との関係は寒々しい。
自民党関係者によれば、加藤は年末年始頃から「総理と政策の議論をしようとしても『うるさい』と怒鳴られるばかり。まともに話もできないよ」と不満を漏らし、最近は「総理とはほとんど話もしていない」と意思疎通すら諦めている風情だという。内部崩壊、極まれりである。
加藤官房長官
菅交代論に傾く安倍
50議席は獲得できると当初見込んでいた東京都議選で過去2番目に少ない33議席と事実上の敗北を喫したことで、選挙基盤の弱い自民党内の中堅・若手議員は浮足立つ。衆院第1議員会館の最上階にある前首相・安倍晋三の事務所には、出身派閥の細田派の議員を中心に来客がひきも切らない。
「このままでは自民党は野党に転落しかねない厳しい状況です」。都議選の翌日、安倍と親密な永田町関係者が水を向けると、安倍はこう漏らした。
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source : 文藝春秋 2021年9月号