岸田出馬の背後にチラつく2つの「A」。そして事実上の自主投票に……。
約110万人の自民党員
「最近、眠れない」「疲れがとれない」
生気のない顔で周囲にこうぼやいているのは、首相の菅義偉である。
8月に実施されたマスコミ各社の世論調査では、菅内閣の支持率は3割前後。東京五輪開催で支持率が上向くはずとの目論見は、見事に裏切られた。一方、自民党の政党支持率は3割台を保持。永田町に伝わる青木幹雄の方程式、すなわち内閣支持率と政党支持率を足して5割を割れば早晩内閣は潰れるとの法則に従えば、政権は危険水域にはあるものの、まだ10ポイントは余裕があることになる。この中途半端な数字が、菅の判断を狂わせ、苦悩に拍車をかける悪循環を生んでいる。
当初、菅が思い描いていたのは、9月上旬にも衆院を解散して選挙で一定の結果を出し、先送りされた総裁選で無投票再選を狙うというものだった。だが、五輪後の感染急拡大で緊急事態宣言が9月12日まで延長され、目算は狂った。総裁選は9月17日告示、同29日投開票となり、衆院選は衆院議員の任期満了(10月21日)より後にずれ込む可能性も出てきた。
そして不倶戴天の仇である元外務大臣の岸田文雄の出馬表明で、無投票再選のシナリオは崩壊した。そればかりか、日頃は岸田を軽んじ菅に追従してきた機を見るに敏な永田町の住人たちも、岸田再評価の動きを見せている。
菅にとって総裁選の最大のネックは非国会議員票の行方だ。今回は党員・党友の投票も含めた「フルスペック」。約110万人の自民党員の投票行動は世論動向を反映しやすいだけに、菅にとって逆風の総裁選となるのは必至だ。
いったいなぜ、菅はここまで追い込まれたのか?
波乱の前兆は、元総務大臣の高市早苗の出馬宣言だった。本誌前号に掲載された高市論文は発売前から永田町にコピーが出回り、菅にも回覧された。「総理は『高市なんて簡単にひねり潰せる。気にする必要はない』と黙殺の構えだった」(菅周辺)。だが、なぜ無派閥の高市が早々に出馬宣言できたのか、そこに思いを巡らそうとしなかったのは、菅の見通しの甘さだった。
そして8月22日投開票の横浜市長選挙で、菅は一気にロープ際に追い込まれる。現職総理の盟友である前国家公安委員長の小此木八郎が総理のお膝元から出馬という、負けるはずのない選挙。にもかかわらず小此木は、立憲民主党の推薦候補で前横浜市立大学教授の山中竹春に完敗したのだ。
この選挙戦を誰よりも正確に見切っていたのは、当選14回の「無敗の男」、立憲民主党の中村喜四郎だった。中村は、菅が師と仰ぐ元官房長官の故・梶山静六と盟友関係にあった。ゼネコン汚職事件で中村が逮捕された後、梶山が「私が代わりに逮捕されていればこんなことにはならなかった」と周囲に語っていたほど懇意だった。菅は梶山に仕え、中村は盟友梶山を守ったという固い絆のはずだった。
ところが中村は山中陣営についた。選挙戦では、自民党と交流がある約30の組織・団体を回り、自民支持層を切り崩した。中村は「自民党は変わってしまった。反対意見を聞くことは民主主義の基本だが、安倍政権以来、反対意見を排除する論理がまん延してしまった。ものが言えない国になってしまう」と批判する。
小此木落選の衝撃は菅批判のマグマとなって自民党内に溜め込まれている。小此木と親しい議員の一人は「総理は自分の地元なのに最後まで街頭演説に来なかった」と不満を口にする。かつて菅の盟友だった「ハマのドン」こと横浜港ハーバーリゾート協会会長の藤木幸夫は「これから山中さんのために頑張る」と表明し「菅も(首相を)辞めるんじゃないの? 辞めないとしょうがないだろう」と挑発した。
菅首相
岸田が警戒する「林芳正」
そんな菅の凋落ぶりを待っていたかのように出馬を表明したのが、岸田であった。8月26日の出馬会見の前夜まで、岸田派の根本匠、小野寺五典、三ツ矢憲生らが集まり、政権構想や他派閥からの支援をめぐって水面下で調整を進めてきた。名誉会長の古賀誠が退き、岸田の参謀役だった望月義夫も2年前に死去。宮腰光寛などベテランも引退し、岸田派の人材難は明らかだ。「派内のベテランからは『岸田政権の樹立を前提に、石破茂を幹事長に据える案も考えるべきだ』との意見まで飛び出した。そうした声が刺激となった」(岸田派関係者)。
だが、岸田の背中を押した最大の要因は、派内にあった。岸田は参院議員ながら派閥ナンバー2の座長を務める林芳正を意識していた。同日の派閥会合で岸田は紙コップに入れたお茶をひと口飲んだあと、傍らに座っていた林をちらりと見やり、「コロナ禍で国民がどのように総裁選をみているのか。しっかり考えながら対応したい」と語った。林はじっと黙っていた。
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source : 文藝春秋 2021年10月号