阪神入団時は角刈りパンチパーマでした。
亀山氏
選手を見る目は確か(笑)
いま振り返ると、あの日がBIGBOSSへの“第一歩”だったのかもしれません。
2021年2月12日、沖縄・宜野座村野球場。解説者としての仕事で、僕は阪神タイガースの春季キャンプの視察をしていました。バックネット裏のスタンド席から練習を観ていると、いつにも増して報道陣の数が多い。それを見て、数日前、アイツが宜野座にやって来るのではと噂になっていたのを思い出しました。
黒のスリーピースのスーツに襟を立てた青いシャツという出で立ちで登場すると、
「あっ亀山さん、どうも」
まるで昨日も会ったように挨拶してくると、そのまま隣に腰かけてきました。
新庄剛志と会うのは実に5年ぶりでした。スポーツニュース番組の企画で人生初のキャンプリポートに挑戦するというのですが、最近のプロ野球事情を全く知らないようでした。
「足速い、あの選手。いつか盗塁王を獲れるんじゃないですか」
――2年連続盗塁王の近本(光司)だよ。
「彼のバッティング、いいですね」
――大山(悠輔)は4番を打っていたから……。
選手を見る目は確かということなのでしょう(笑)。彼らしいと思ったのは「外野手のフィールディング(守備動作)が甘い」とすぐに気が付いたことでした。
新ユニフォーム姿の新庄監督
俺の代わりに怒られる後輩
前年の2020年(昨シーズンも)まで、阪神は3年連続失策数ワースト1位でした。新庄は、外野手の構え方について「投手が投げてから打者が打つまで、膝に手をつくのは良くない」と。一歩目が出遅れ、捕球の確率が下がるというのです。たしかに現役時代の彼は、投手が投げる直前に足を動かし、外野を抜けそうな飛球に追いついていました。
このキャンプ視察の頃には、監督になりたいと考え始めていたのかもしれません。一緒に練習を視察して、これからプロ野球をじっくり勉強していこうと考えているのが伝わってきました。ただ、それでも1年後にユニフォームを着ているとは思ってもみませんでした。
昨年11月、北海道日本ハムファイターズ監督に電撃就任した新庄剛志。自ら「BIGBOSS」と名乗り、春季キャンプでも球界の話題をさらっている。
新庄は、福岡・西日本短期大学附属高校から1990年、ドラフト5位で阪神タイガースに入団。亀山つとむ氏は、阪神時代の同僚であり盟友である。2人は1992年シーズンにチームの躍進の原動力となり「亀新フィーバー」を巻き起こした。
新庄は僕の2つ下の後輩にあたります。入団時の髪型は角刈りシルエットのパンチパーマ。いかにも九州からやって来た田舎のヤンキーみたいな風貌でした。
当時の阪神は上下関係が厳しく、ことあるたびに若手は先輩から寮の屋上に呼ばれて指導を受けていました。もちろん口頭注意で済むはずがありません(笑)。新庄が入団した年には、彼を含めて4人の高卒新人が入ってきたので、「ようやく俺の代わりに怒られる後輩ができた」と喜んでいました。僕にとってルーキーの新庄は、そういう意味で“期待の新人”の1人に過ぎなかった。
ただ野球選手としての素質はピカイチでした。身体能力、特に握力はずぬけて高かったし、肩もめちゃめちゃ強かった。だけど打撃、守備、走塁全てにおいて粗削りで、すぐに一軍で通用するレベルではなかった。
転機は1992年です。僕が5年目で新庄は3年目のことです。
当時の阪神は暗黒時代と言われていた。85年に日本一に輝いた後、2年後に最下位に転落し、それから5位が1度、あとはすべて最下位というお粗末な成績でした。
85年の伝説のバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発に象徴される攻撃重視の野球を踏襲するなかで、チーム作りが硬直化していた面があったと思います。
チームが変わる大きなきっかけとなったのが、92年の「ラッキーゾーン」撤廃です。ホームランが出やすいように設けられたエリアが取り除かれ、フェアグラウンドが広くなりました。
そこで中村勝広監督は守備中心のチーム作りへと方針転換し、俊足と強肩の野手を積極的に起用するようになります。一気に世代交代の流れがやってきて僕たちにチャンスが巡ってきました。
ライトは、85年組の真弓明信さんの「定位置」だったので、僕がスタメンで出始めた頃、「真弓を出さんかい!」といつもヤジが飛んでくる。おっかないので、スタンドから離れ、かなり浅めに守っていた(笑)。プロの世界では、同じレベルの成績であれば、客を呼べる人気選手を起用するのは当然です。当時、真弓さん、岡田彰布さん、平田勝男さん、木戸克彦さんなど、85年優勝組も健在だったので、そうした先輩よりよっぽどいいプレーを見せないと、レギュラーを勝ち取ることはできませんでした。
僕もそうですが、新庄は運も良かった。実は、その年の新庄は、ファームでじっくり育てる構想があり、開幕は2軍スタートでした。ところが、5月に主砲オマリーが骨折し、その代役として急遽、1軍昇格し、スタメン出場を果たします。しかもその試合の1打席目の初球でレフトスタンドにホームラン。これが決勝打になりました。“持っている男”の面目躍如です。そこから活躍をつづけた新庄は、7月からセンターのポジションを掴むのです。
「お前ら罰金だからな」
この年から新庄は、頭を使ったプレーを見せ、試合を重ねるごとにみるみるレベルアップしました。
「小さい頃からどんなスポーツもこなせたけど、自分の思うようにいかなかったのは野球だけ」
新庄はよくこんなことを言っていましたが、事実かもしれません。高校時代までは、身体能力だけでカバーできていましたが、プロの世界ではやはり太刀打ちできない。85年メンバーからレギュラーを奪い取るために何をすれば良いのか、彼なりに考え練習するようになった。一つ一つの技術的な課題をクリアしていくうちに野球の面白さを知ったのではないでしょうか。持って生まれた才能と技術がうまく噛み合ってスター選手として花開いたのです。
「右中間を抜かれたら、お前ら罰金だからな」
中村監督に厳命された僕たちは、とにかく守備にこだわりました。
広いスペースを守るためには密なコミュニケーションが必要です。右中間に飛んだボールを2人でやみくもに捕りにいってもお互いが譲り合って「お見合い」したり、反対に激突したりする。そこで、打者のタイプと配球に合わせて守備位置を変え「この打者は俺が捕るから、おまえはバックアップに行ってくれ」「僕が前に飛んだ球を捕りますから、後ろは亀山さん頼みます」と、あらかじめ役割分担していました。当時は、派手なダイビングキャッチばかりが注目されましたが、裏ではかなり緻密な戦略を立てていたのです。
阪神時代の新庄監督(左)と亀山氏(右)
実はマスコミが苦手だった
85年以来の快進撃によって、マスコミは「亀新フィーバー」と書き立て、在阪メディアを中心に取材攻勢は日に日に激しくなっていきました。またファンレターは1日段ボール1箱分届き、寮の裏にあるマンションの敷地に侵入するファンまで現れ、僕らは球団が用意したホテルで暮らしたこともありました。
試合中、僕たちは中村監督に与えられたチャンスをモノにすることに必死でした。ベテラン選手のように一シーズン通してプレーしたことがないからペース配分が分からない。とにかく全力で打って走って守って、どんな凡打でも最後まで全力疾走してヘッドスライディング。試合が終わればもうクタクタですよ。目の前の試合をこなすことにいっぱいいっぱいで、新庄も、メディア対応する余裕はなかった。むしろ当時はマスコミが苦手だったと思います。
結局、92年の阪神は、シーズン終盤まで野村克也監督率いるヤクルトと優勝争いを繰り広げましたが惜しくも2位。それでも6年ぶりのAクラス入りとなりました。
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source : 文藝春秋 2022年3月号