夫が愛したポテトサラダ

栗原 はるみ 料理家
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彼にだけは嫌われたくない──。その一心で料理を続けました
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栗原さん

おいしい料理を再現するには

〈はるみ様 心底からの感謝と尊敬、そして愛を申します。〉

〈君は常に努力の人です。いつも前を向き、決して手を抜かない。〉

 2019年8月に亡くなった夫・玲児が手帳に書き記していた言葉です。その前年に肺にがんが見つかり、亡くなる6カ月前に余命宣告を受けていたのですが、それが私への最後のメッセージになりました。手帳にはほかにもメッセージが、しっかりした筆致で遺されていました。その一つひとつが今、私が前を向いて生きる原動力になっています。

 料理本だけでなく使い勝手のいい食器や台所用品などのプロデュースも手掛け、主婦を中心とした「ハルミスト」たちの絶大な支持を得ている料理家の栗原はるみさん。夫の玲児さんは延命治療を受けずに、はるみさんが自宅で看病し、看取った。その後しばらく傷心の日々を送っていたが、残りの人生を悔いのないものにするために一歩踏み出すことに——。

 3月5日で75歳になる私は、その前日に新しいパーソナルマガジン「栗原はるみ」を創刊します。版元の講談社の役員の方が驚いて、「75歳で雑誌を始めるって、なかなかないですよ」とおっしゃいました。確かに、新しく何かを始めるということも、定期的に雑誌を編むということも、私にとって思ってもみなかった“挑戦”になります。

 パーソナルマガジンとしては、「暮らしのレシピ」、その後継誌の「すてきレシピ」「haru_mi」(いずれも扶桑社)を4半世紀にわたって発行し続け、昨秋の通算100号をもって終了しています。この最終号は20万部を発売してすぐに完売し、追って重版もされました。

 私の料理は家庭料理です。どなたでも作ることができて、日々の食卓で楽しく食べてもらうために、毎号100を超えるレシピを考案、掲載してきました。

 おいしい料理を再現するには、材料や調味料の分量、調理時間など、レシピの“数字”をきっちり正確に出さなければなりません。でも、このレシピを見ながら作る人はどのような状況で作るのか。例えば材料にトマトを使う場合、採りたてのトマトを使う人もいれば、冷蔵庫に何日か保存されていたものを使う人もいます。そのどちらのトマトでもおいしくできる数字を割り出すまで、私はあきらめずに何度でも試作を繰り返します。

栗原はるみ書影

料理というより実験

 電子レンジの機種も家庭によって違い、機種が違えば性能も違うわけです。レシピにある時間のとおりにやってみたけれど芯が残っておいしくありません、なんていうことが起こらないように、確かめなければいけないことは山のようにあります。もはや料理の試作というより、実験の域です。

 何より、私は作り慣れているけれど、初めて作る人でも同じように調理できて、おいしそうに盛り付けできるような手順を考えなければなりません。例えば、野菜の切り方にしても、慣れない人がざっくり切った太さでもおいしい料理になるレシピを考えます。

 さらに、プロの料理家としてはオリジナリティも必要です。おいしいだけでなく、「栗原はるみらしい」「栗原はるみだから考え付いたのね」ということをほのかにでも感じていただけるものにしたいのです。

 ですから、土日の休みもなく私はキッチンで挌闘し続けました。タフな仕事になることはわかっていましたから、当初から100号で区切りを付けようと決めて、それが達成される日を心待ちにしていたんです。そして無事に達成した暁には、夫といろいろなところへ出かけようと約束していました。夫は九州を周遊する列車「ななつ星」やヨーロッパの船旅のパンフレットを取り寄せ、一緒に旅をするのを楽しみにしていたのに、100号達成の前に独り、旅立ってしまいました。

14歳年上の夫・栗原玲児さんは元キャスター。人気番組「木島則夫モーニングショー」(旧NET)のサブMC、「スター千一夜」(フジテレビ)のインタビュアーなど幅広く活躍した。はるみさんが仕事を始めてからは、毎朝玲児さんが作る朝食を一緒にとることから一日がスタートした。
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14歳上の夫・玲児さんと

 46年間連れ添った夫がいなくなってしまった。その喪失感は、想像をはるかに超えていました。朝からメソメソ泣いていましたし、料理さえもしなくなりました。それを夫と一緒に食べていたシーンがよみがえってくるのが、あまりにも辛いからです。

 長年、土日も休まず仕事を続けてきた私ではありますが、およそ職業をもって活躍する自立した女性像とは程遠い、むしろ夫に依存して生きてきた人間であると思います。若い頃には言い合いをしたこともありましたが、夫が嫌がることはしないと固く心に決めていました。夫にだけは嫌われたくない、私が妻でよかったと思ってもらいたかったのです。

 専業主婦だった私が料理家の道に進んだのも、40年ほど前に「僕の帰りを待っているだけの女性にならないで」と、夫から自分の道を探すように背中を押されたからです。そうやって料理家になってからも、考案した厖大な数の料理のレシピは、それを世に出すかどうか、彼の反応を見て決めたといっても過言ではありません。

 というのも、夫は非常に厳しい批評家だったからです。「厳しいことは僕にしか言えないだろう」が口癖で、「ちょっと違うんじゃない?」「こんなことをやっていたら駄目だ」「おいしくない」と言われるのは日常茶飯事でした。

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白飯がまずいと言われて

 あるとき、「うちのご飯はまずい」と言い出したこともあります。いろいろお米を替えて、水を替えて、炊き方を変えて1カ月以上、毎日悩み、考え続けました。料理家なら、そのぐらい真剣にやらなければ駄目だということを教えてくれていたのだと思います。

 ポテトサラダ事件もありました。ポテトサラダは夫の大好物ですから、よく作って食卓に出していて、そのレシピも何十種類もあったのですが、夫は時々ある有名ホテルのポテトサラダを買ってくるのです。たまたま近くまで行ったので買ってきたのだろうと思っていたのですが、あるときハッと気づきました。そうか、夫は私のどのレシピで作ったものより、このホテルのポテトサラダが好きなんだと。それからは、このホテルのポテトサラダの味を再現するのに必死になりました。

 おいしいときには「ベリーグッド!」と言ってくれます。彼の口からこのひと言が出れば、そのレシピは世に出しても大丈夫。でも「ベリーグッド!」はなかなかもらえません。ならば言わせてみせようではないかと、こちらも負けん気が発動します。こうして私の料理の腕は鍛えられたのです。

 ちなみに、ポテトサラダは夫の好きな味を再現することができるようになりました。ポテトはメイクイーン、タマネギはスライスして水にさらす、ニンジンは茹でる、ロースハムは1センチ角、姫キュウリのピクルスは自家製、マヨネーズも手作り。なかなかの手間ですが、以後、わが家で作るポテトサラダはこれ1種類になりました。

仏壇を正視できない

 彼が手帳に遺していた〈君は決して手を抜かない〉というメッセージを見つけたとき、私は初めて私の料理家としての姿勢に「ベリーグッド!」をもらったような気がしました。最後の最後には、私を認めてあげようと思ってくれていたのでしょう。自分がいなくなっても、遺された妻はこのメッセージを支えに元気で生きていける。そう考えたに違いありません。

 そのとおりではあるのです。私は生きる力をもらいました。でも人間の心も身体も、そんなに単純ではありません。元気にやっていこうと思ったのに、また寂しさや悲しみに囚われて身動きできなくなってしまう。その繰り返しで、実は今でも仏壇の夫の写真を正視できずにいます。

 そんな私を息子の心平が心配して、「何でもやりたいことを100個考えて。そうしたら全部実現するのに付き合ってあげる」と言い出しました。息子の嫁は早速、「人生でしたい100のことを書くノート」なるものを買ってきてくれました。

 試しに書いてみると、次々に「人生でしたいこと」が思い浮かびます。ひとつ目は「韓国語を学ぶ」。そして「パソコンを学ぶ」「iPhoneを学ぶ」「きちんと睡眠がとれるすべてのことを見つける」「自分のベスト100曲を選ぶ」「佐野元春さんに会う」……。

佐野元春さんに会う

 シンガーソングライターの佐野元春さんには「haru_mi」最終号にゲストとしてお招きできたことで、「会う」という願いは実現しました。佐野さんは1980年にデビューされていますが、私が初めてその存在を知ったのはそれから40年後のこと。夫を亡くして1年が過ぎたのに、まだ寂しさに落ち込んでいたとき、NHKの「SONGS」に出演されているのをたまたま目にしたのです。

〈今までの君はまちがいじゃない〉
〈これからの君はまちがいじゃない〉
          「約束の橋」作詞・作曲:佐野元春

 佐野さんの「約束の橋」の歌詞、歌声、演奏、インタビューに応える言葉にたちまち引き込まれました。なにか、私の人生が変わるような予感さえしました。

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source : 文藝春秋 2022年4月号

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