災害や事故、医療現場で私は人間の「ドラマ」を書き続けてきた。
柳田氏
「なんだ、勤め人か」
日本の空がジェット時代に入って間もない1966年の春の連続航空機墜落事故の謎を5年追いかけて書き上げた『マッハの恐怖』が、72年春、第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
東京・新橋の第一ホテルで開かれた授賞式の後、パーティで文藝春秋社長の池島信平さんにお礼のあいさつをすると、額から頭にかけてシャンデリアの光を反射させた池島さんがぎょろっとした目で私に言った。
「あなたは、何をしてるのかね」
一瞬、返答に迷った。次は何を書いているのか、それとも職業は何かというのか。私は素直に答えた。
「NHKの記者をしてます」
「なんだ、勤め人か」
池島さんはそう言っただけで、談笑している臼井吉見さんや開高健さんたちのほうへ行ってしまった。その時、私は35歳。菊池寛の時代から知っている池島さんには、私などは若造に見えたのだろう。《気骨のある人だなあ》と、私は半ば感服する思いで、池島さんの後ろ姿を見つめた。
その後、仕事が一段落した時などに、「なんだ、勤め人か」という言葉が池島さんの鋭い眼差しとともに脳裏に浮かんでくるようになった。そして、その言葉は自分にとってどんな意味があるのだろうかとまで考えるようになった。
いつしか辿り着いた意味づけは、こうだった。
「あなたは、書くということに人生を賭けているのか」――と。
もともと私は戦中戦後に小学生時代を過ごし、空襲の恐怖や貧困を身に染みるほど体験したことから、高校時代には、仲間たちと集まっては、これからの日本はどうあるべきかと議論していた。
そんな熱い思いから、大学は経済学部を選んだのだが、教条的な講義に違和感を抱くようになった。大学3年の後期に入った頃、どう生きるか悩んだ末に、自分は問題の現場に立ち、現実を自分の目で見つめ、人間のナマの言葉に耳を傾けることによって、自分なりの人間観・世界観を構築していこうと心に決めた。
NHK記者になったのは、現場取材をする記者になろうと、たまたま入社試験を受けたら採用されたまでのことだった。
授賞式での柳田氏(右)と池島社長
「同じような本は書くなよ」
それから12年が経ち、池島信平さんの言葉に遭遇したのだ。私はNHK社会部で、ずっと“遊軍記者”として、災害や大事故の現場に派遣されたり、発生原因の追跡をしたり、学術や医療などに関する企画取材をしたりしていたので、仕事に不満はなかった。
だが、そういう取材を何年も積み重ねていると、問題の背景や構造や人間の「生と死」のドラマなどについて、取材ノートや収集資料やエピソードが蓄積されるのに、ニュースという時間的な制約のある枠の中では、一部しか表現することができないというジレンマを感じることが多くなっていた。「書くということに人生を賭けているのか」という自問の言葉の刃が突き刺さってきたのは、まさに私の内面に疼いていたジレンマのところにだった。
大宅賞受賞から2年余り後の74年夏、管理職昇格前に退職してフリーになった。取材をしたくて記者になったのに、デスクワークに縛られるなんて、人生の幕引きに等しいと思ったのだ。38歳だった。
『マッハの恐怖』を出して間もなく、当時新潮社のベストセラーメーカーと言われていた出版部長の新田敞さんと出会った。ストレートに突いてくる人だった。
「『マッハの恐怖』は、いい作品だよ。しかし、航空問題に詳しくなったからといって、同じような本は書くなよ。航空評論家のレッテルが貼られてしまうからね。作家として書いていくなら、全く違うテーマの作品を書きなさいよ。新しい作品を出す時には、読者が《この作家はこんなことを書くだろう》と予想できるような内容のものでは駄目だ」
ありがたい助言だった。
「担当の編集者をつけるから、新しい作品を考えてください。30過ぎの女性だけど、なかなか有能ですよ。ただ彼女には旦那がいるから、そのことは覚えといてよ」
と、いたずらっぽい目を私に向けた。新田さんは、「これ読むといい」と言って、アメリカのニュージャーナリズムの旗手ゲイ・タリーズのマフィアの人間像を描いた『汝の父を敬え』を私にプレゼントしてくれた。
取り組んだ新しい作品は、広島が原爆被災した1か月後に、気象台の機能麻痺の中で、大型台風による豪雨災害を受け、2000人もの死者が出たという埋もれた複合災害の全容を、生き残った気象台の測候技士たちの証言を通して描き出すという発掘ドキュメント『空白の天気図』だった。駆け出しの記者時代に3年半広島に勤務していた時以来、いつか書こうと決めていたテーマで、75年9月に出版された。気がつけば文体にニュージャーナリズムの影響を受けていた。
担当編集者は伊藤貴和子さんで、その後30年にわたって、がんの時代における「生と死」をテーマにした私の一連の作品の取材と執筆をサポートしてくれることになる。
がん医学の創世記
文春以外の編集者で私に跳躍の機会を提供してくれたもう1人は、講談社の週刊現代編集長だった鈴木富夫さんだった。
ノンフィクション作品の連載をしないかという誘いに対し、私は、今や国民病と言えるほど急速に増えつつあったがんの問題について、がん医学の進展と臨床の実際を研究者や臨床医の最前線のドキュメントとして、歴史的な視点も入れて構成するという案を提案した。
なぜ「文藝春秋と私」というこの原稿の中で、新潮社刊や講談社刊の作品のことまで書くのか、その理由は、そのようにして書いていく作品たちが、その後文藝春秋で発表する作品へと円環のように繋がっていくことになったからだ。
連載のタイトルは、『ガン回廊の光と影』と決めた(当時は、一般にがんをガンと表記していた)。連載は78年1月から79年3月まで1年3か月続き、原稿枚数は1000枚を超えた。すぐに単行本(『ガン回廊の朝』と改題)になったが、私は頭の中に、《書き残したものがある》という思いを引き摺っていた。がんを早期に見つけて「治る病気」にすることはできないかと、日夜苦闘する研究者や臨床医の“詩と真実”は、しっかりと書いたのだが、もう一つ、大きな課題があった。
それは、がんが進行し残された人生が長くはないとわかった時、人はいかに生きるかという死生観、人生観にかかわる問題だ。その問題を固有名詞を持った一人ひとりの人間の「人生の最終章」の物語として、リアルに捉えて、時代の記録として残さなければという思いが、私の頭の中に渦を巻いていたのだ。
「最終章」をどう生きるか
そのことを、文藝春秋の編集長になった安藤満さんに話すと、2つ返事で、「それ、はやいとこやりましょうよ」と、敏感に反応してくれた。担当編集者には、しばらく前に、立花隆さんの「田中角栄研究」をサポートしたグループの白石勝さんがなってくれた。
79年の春から夏にかけて、私は一部取材記者の応援を受けつつ、がんで亡くなった著名人など五十数人のご遺族のインタビューを行った。
作品は、『ガン50人の勇気』というタイトルで、文藝春秋の79年11月号(10月発売)に掲載された。原稿用紙100枚を超えたが、一挙掲載してくれた。
読者の反響は大きかった。日本ではがんに対するゆがんだ受け止め方が社会的に染みついていた。がんで亡くなると、本人も家族もがんと知られるのを忌み嫌い、周囲に真実を話さない傾向が強かった。また、患者ががんと診断されても、医師は本人には告知しないで、家族にだけ説明していた。
『ガン50人の勇気』で取り上げた著名人たちの中には、本人にがんと告知されていなかった人が少なくなかった。しかし、それでも自分の病気が只事でないことを察知して、本人も家族もよりよい最期を迎えようと、懸命に模索する姿があった。
そうした時代状況の中にあって、『ガン50人の勇気』は、読者に対し、自分なら“事実”をしっかりと知って、残された月日を自分なりに納得できるように生きたいと考える方向に、人々の死生観を変えるきっかけを与えたようだった。読者の手紙からそう感じられた。
そうした読者の1人に、進行がん患者の精神科医・西川喜作医師がいた。『ガン50人の勇気』に感動した西川医師は、死と向き合う医学への改革のために、最期の刻までの自らの心理過程を記録して伝えたいという熱い思いの手紙をくださった。私は西川医師の「人生の最終章」の伴走者となって交流を深め、亡き後、伊藤貴和子さんのサポートで、『「死の医学」への序章』を書き上げた。
本誌1979年11月号
20年を経て変容した死生観
80年代は、日本でもはじめてのホスピスが開設され、日本死の臨床研究会の活動が医療界に浸透し始めた時期で、医師や看護師の中に死を前にした患者へのケアに取り組もうとする先駆的な動きがみられるようになった。また、がん患者や遺族らがつながり合って、悲しみをかかえながらどう生きるかを考えようという「生と死を考える会」の活動が全国各地に広まっていった。
そうした時代の変化を反映してのことであろう、『ガン50人の勇気』も『「死の医学」への序章』も版を重ね、10万部を超え、いくつもの看護学校で副読本になった。
それから20年以上が過ぎた2006年の夏、文藝春秋の編集長・飯窪成幸さんから電話を受けた。企画の打診だった。『ガン50人の勇気』からかなりの年月が経ったので、日本人の死生観や死を前にした生き方はかなり変わってきたのではないか。特にがんについては、告知するのがあたり前になり、痛みの治療法も進んで心のケアもかなりしっかりと取り組まれるようになった。そういう時代における人生最後の生き方について、前著以降の20年余りの間にがんで亡くなった人々のことを、『新・がん50人の勇気』として連載で書いてくれないか、というのだった。
私は嬉しくなった。『ガン回廊の朝』以後、私は、10年か20年くらいの間隔を置いて、再びがんをめぐる問題について取材・執筆をして、日本人の死生観の変化や、死が避けられない患者に対する医療の取り組みの変化を、リアリティのある形で記録したいと考えていた。
ところが飯窪さんから先手を打って企画の提案をされたのだ。不思議な因縁を感じた。
『新・がん50人の勇気』は、07年の1月号から10か月にわたって連載された。取り上げた人物は、武満徹、山本七平、井上靖、手塚治虫、中川米造、宮崎恭子、重兼芳子、米原万里、高田真快、乙羽信子、長新太……そして昭和天皇など55人に上った。中には市井の企業人も含まれていた。
それらの人々の死をめぐる取材で明確になったのは、予想通りがん死は社会的に秘められたものでなく、すっかり社会化され、自意識の点でも家族の視点からも、死をしっかりと意識して最期の刻まで生を納得のいくものにするという、まさに現代の「生と死」の形だった。日本人の死生観と「生と死」の現実の姿が、わずか20年ほどの間にこんなにも変化するのは、奈良・平安以来の歴史の中ではじめてだろう。その事実は、私にとって感慨深いものだったし、そうした日本人の「生と死」にかかわる精神文化の劇的な変化を、同時進行の形で取材して記録する機会を設けてくれた編集者に感謝している。
科学技術と人間のからみ合い
私がフリーの作家活動に入って間もない1975年の夏に戻る。
ある日、月刊文藝春秋から週刊文春編集次長に異動になった村田耕二さんが電話で相談したいと言うので、私のほうから文春を訪ねた。玄関脇の広々とした応接間にはじめて通され、隣りとゆったりと空間をあけたソファーで向き合って、大きな企画を提案された。
日本海軍の主力戦闘機だった零戦の誕生から死(つまり敗戦)までを、技術開発の苦闘と戦闘の実態とを並行させて辿る作品を長期連載で書きませんかというのだ。
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source : 文藝春秋 2022年5月号