「私は在日ウクライナ大使館のHPを開き、メールを送った」。戦争、国家、平和──自衛隊出身の新芥川賞作家が緊急寄稿。
砂川さん
約70名の日本人が義勇兵に志願
2月27日、ウクライナ・ゼレンスキー大統領は、ロシアと戦うために世界中から志願兵を募集し、外国人部隊を編制すると発表した。
私は、7歳の息子と3歳の娘を寝かしつけ、翌朝のアラームを携帯でセットしている最中に、ポップアップ表示されたニュースでこれを知った。
その時、一体どういう心境だったのかは分からない。私は布団の中から、在日ウクライナ大使館のHPを開き、メールを送った。拙い英文で、参加要領を確認したいということ、簡易ながら自衛隊歴を記した。
3月1日の報道発表によると、約70名の日本人がこの義勇兵に志願し、うち約50名が元自衛官だったという。私がその50名の中に含まれているかは分からない。政府はこの件を受けて渡航自粛を改めて呼びかけ、在日ウクライナ大使館からの募兵も立ち消えた。ウクライナ大使館からの返事は未だにない。
メールを送ってから、動悸が激しくなった。戦いたいのか? 分からない。人を殺したいのか? 嫌だ。本当に国を出るつもりか? 分からない。殺されたいのか? 嫌だ。世界は変わった? 分からない。
記憶はあやふやだ。新型コロナウイルスの前と後とを想起して比較しようと試みるも、なぜか確実にパンデミックよりも前の年月における記憶であるにも拘わらず、そこにはマスクやアクリルパーテーションが映りこんでいたり、その反対に、確実にパンデミック後の出来事であるのに、それら感染症蔓延の代名詞ともいえるようなものが一切合切取り払われていたりする。だからというべきなのか、ひところからよく目にするようになった「新型コロナウイルスは世界を変えたのか」という問いや、「アフター・コロナ」、「ビフォア・コロナ」という文言は、私にとっては引っかかりや疑問というよりも、記憶同様曖昧模糊としていて、手触りのないものだった。年中鼻炎があってマスク生活はその前からしていたし、生来の人付き合いの悪さから宴会やなんやかんやで大勢の人と会うのは年に1度か2度、遠出も家族とのみで、1人で遠出をするときも公共交通機関ではなく専らグラベルバイク(ロードバイクの亜種)かクロスバイクだ。
ウクライナ軍兵士
ÂⒸCozzoli/ROPI via ZUMA Press/共同通信イメージズ
不意に思い出す「有事即応」の感覚
芥川賞を受賞してから、若干身辺が騒々しくなりはしたが、それも一時のことで、ひと月も経てばほとんどいつもと変わらない毎日が戻ってきた。
少し早くに起きる、読み書きをする、家のことをして仕事をして、極力個人的な友人や知人との関係は深入りはせず、細々とした小さな生活圏を維持する。小さければ小さい分だけ密度と強度が上がった気がする。それを証明する手立てというべきか否かは定かではないけれども、世界的なパンデミックや緊急事態宣言は、私の生活にほとんど影響を与えなかったと言っていい。ひょっとすると、自衛隊から転職をして一生活者として東京にやってきてこの方、私の生活は常に緊急事態宣言下と同質の生活様式だったのかもしれない。
陸上自衛隊におけるかつての生活は、当時は日常だったが異常だった。陸上自衛隊に所属はしていたけれども、対戦車ヘリコプターという航空兵器を運用する関係上、朝は非常に早かった。例えば、その日にフライトが入っていた場合、遅くとも7時の気象情報を取っておかなければならない。行先や離陸時刻によっては、より早い時間のものを取得することもある。飛行前ブリーフィングは8時半に始まるから、次は8時の気象現況をチェックして、その1時間の間にどれだけ気象に変化があったのかを、気象班に所属している予報官に確認する。で、7時の予報を確認するためには、当然のことではあるが、その前に登庁していなければならない。フライトは訓練だから、それ以外にも業務があり、業務量によってはさらに早く出勤することもある。そういうことで、私は自衛官時代、大体5時前後には出勤していた。要するに、自衛隊を辞める前も後も、4時前後に起きて何かをする、という生活リズムそれ自体はあまり変わっていないということだ。
転職後における一番の違いは、「有事即応」という枷が外れたことだろう。休みの日だろうともなんだろうとも、呼集があれば出動しなければならない。幸いにして、自衛隊に在籍していた6年間、有事で登庁をしたのは、航空機墜落時の対応における1度だけだ。深夜12時に電話が鳴り、2時には装備を整えて帯広から札幌へ、パジェロに乗車して出発していた。訓練の翌日だった。
こういう勤務形態は、意識するにせよしないにせよ、心身に緊張を伴う。辞めた今でも、不意にその感覚を思い出すことがある。何もないときに感じることもあるが、きっかけがあるときもある。地震や隣国の弾道ミサイルの発射や地政学リスクが報道されるときなどがそうだ。
無力感を感じるか? 感じる。この感じは、でも初めてではない。
3・11が起きた時、私はまだ大学生だった。
公立図書館と公民館とが合わさったような複合施設で、中高生や大学生が自習をするような場所もあって、私はそこで友人とともに公務員試験の勉強をしていた。発災直後、その友人と2人で避難誘導を手伝った。2階では高齢者が麻雀をやっていたが、震度の割に緊張感がなく、何人かの老人はしぶしぶ誘導に従っていたのを覚えている。手牌がよかったのかもしれない。
とにかく、自分がしたことといえばそれくらいだ。歯がゆかった。
東日本大震災の被災地
当事者ではないことに対する苛立ち
3・11では、予備自衛官にも初めて災害派遣が発出された。常備自衛官ではなく、退職した元自衛官や一定の訓練を受けた一般市民で構成される非常勤の自衛隊員のことで、この予備自衛官に具体的な行動命令が発出されるのは、自衛隊発足以来初の出来事ということもあり、この災害以後もそのことは度々見聞きするようになった。
当時私は予備自衛官補という、予備自衛官になるための訓練段階にいたため、予備自衛官ではなかった。何もできなかった。2022年の今この瞬間に感じる無力感は、まさにこの時のものと同質だ。そしていつしか無力感は苛立ちに変わる。当事者ではないことに対する苛立ちだ。関われないことへの苛立ちだ。戦争は、積極的に関わるべき事柄なのか? 分からない。
ただ、公安職や公務というのは、望むと望まざるとにかかわらず、そうした事態に対処しなければならない義務がある。先に挙げた心身の緊張は、多分この義務に少なからず由来している。
自衛官でいたときはもちろん、今も思っていることは、そういう緊張を抱かない日々のほうがとても健全だということで、実際自衛官時代に何かしらの特別勤務についていたとき、何もないことを常に願っていた。駐屯地の営門でトラブルを起こす極左または極右、巨大な災害、戦争、航空機の事故。何もかもが起きてほしくなかった。この「起きてほしくない」という心情は、しかし平和や安心を心から希求するというところからのものではなく、公安職という職業柄、それらが起きたならば直ちに何かしらの義務が発生するという負担を忌避するという、どちらかといえばとても消極的な気持ちが出発だった。語弊があるかもしれないが、面倒だったといってもいいかもしれない。そしてこの心情は、先のとおり警備や災害派遣やその他諸々の勤務についていないときにも日々の営みに底流として存在していた。緊張が、一種の波形として生活の一部に常に横たわっていた。勤務がなければ、その波は微弱になり、勤務日であれば張り詰めるといったように。
傍観者であることへの自己嫌悪
苛立ちは、対岸にいる者として、評論家として、一生活者としてそういう事態を眺めている、又はどこか興奮気味に伝えているという事実によってより強くなる。「現地に日本人の被害者がいるという情報は入っておりません」と伝えるキャスターの声音のバックに、自動車爆弾の映像やロケット砲がビルに撃ち込まれる映像や航空機の残骸や火山の噴火の映像が流れるという、そういう興奮だ。何かに備えて待ち構えているということの当事者性と、何かを漫然と待ち望んでいることの傍観者性とが、同じ淡々と営まれる日々の中に対立的に見えるときがあって、言うまでもなく私は後者の傍観者性に嫌悪感を覚え、それでいて自分もそちら側の一員であることを見つけて自己嫌悪に陥る。それゆえの苛立ちだ。
かつてと同じルーティンの中にいるのに、自分はいつの間にか何かに備えているつもりでいて、何かを待ち望んでいる側に落ち込んでしまったのではないか。分からない。そうなのだとしたら、自分で自分を許せない。待ち構えている者に見えている物が、待ち望んでいる者には見えない。待ち望んでいる者に見えていない物が待ち構えている者には見える。お前はどっちなんだ、と自分に訊くも、答えは出ない。
威勢のいい言葉をネットや街頭で見聞きする。私にはそうは思えない。核武装をすべきかだって? そんなことは分からない。元首相の言葉が、ニュースに、今現に手に持っている携帯電話の液晶画面にポップアップで表示される。彼が在任していた頃、集団的自衛権に関するトピックが報道でも国会でも市井においても盛り上がった。今と似たような興奮が見えた気がした。そこには自分や自分が属している組織のことが主題としてあるにもかかわらず、なぜか置き去りにされているような気がした。だからなんだっていうんだ、そう思った。当時の首相や野党や駅前の演説やビラやSNSや匿名掲示板やテレビの内側でのやりとりに自分や同期や上司や高校を卒業したばかりの新隊員の生の姿を一度も見たことがない。だからなんだっていうんだ? あいつらには一体何が見えているっていうんだ?
今の自分は? この問いは自分を苦しめる。いつの間にか、自分もかつての唾棄すべき連中のように見えないものが見えるようになってしまっているのではないか、と思うのだ。
置き去りにされていた「これまで」の逆襲
緊張感は薄まって、無力感と焦燥感が自分の中で巻き起こり、そして衝動に変じる。気が付くと所帯を持つ、都内のしがない兼業作家がウクライナ大使館へ、義勇兵の参加要領について確認するメールを送っている。
この瞬間を待ち望んでいたのか? 分からない。
ドローゴ中尉は常に何かを待っていた。その何かはついに訪れることはなかった。本当は、幻想文学の古典・『タタール人の砂漠』をそのように、自分に引き寄せて、真に軍隊と戦争というような物語として読むべきではないのだろう。きっとそういう作品ではない。そしてそういう作品ではないからこそ、訴求力を持ち、長く読まれているのだ。でもこの作品を初めて読んだとき、自分はたまたま諸外国でいうところの士官学校を出て、首都から地方へ赴任する下級士官という、自己投影するに最適の登場人物をその作品の中に見出してしまった。
何かを待ち望む人間はいつの時代にもいたことの証左なのかもしれない、と思うとますますこの世界には、「前と後」なんて存在しないのではないか、と考えざるを得ない。
「これから」をまことしやかに強調する世界で置き去りにされていた「これまで」が、逆襲を始めているように私には見える。
現状を力で変更することは許されると思うか? 分からない。
中国の台頭と時を同じくして、米国の覇権に挑戦するという文脈で、彼の国の行動は「力による現状変更」と報じられるようになった。それに抗するべく行動する陣営は「自由で開かれた」側だという。日々の営みの中で、テレビやニュースアプリの通知やSNSで、ゆるやかに自分がどちらの側にいるかを認証され続ける。気が付けば、今や「自由で開かれた」という言葉は、とてつもなくイデオロギー的に響く。
「ネットで得られる情報で十分」というのも怪しい。それこそ現状を予見するかのような記述のある古典は書店の片隅で埋もれ、ネットで得られる、有用と思えるものの拡張子は pdf で、宣伝も広告も何もなく、ネットの片隅で細々と更新が続けられているだけだ。それらをかき消すようにして「これからの時代は無国籍企業が主流になり、人・モノ・カネの動きはボーダレス、シームレスになり、いつでもどこでも誰とでも働けるような人材が生き残る」というような煽り文句が、つぶやきというにはあまりにも大きな声となって覆いかぶさる。こういう発言は、時に挑戦的な文言が使われていたり、時に不安を惹起するような記事であったりとさまざまだが、ひところより現われるそれらの記事に通底していたのは、「国家や政府の終焉」、「個人の台頭」、「技術の革新」というところではなかったか。
国家こそ最強のプレイヤー
が、私たちはパンデミックやウクライナ戦争勃発以来、国家の号令一つでいとも簡単に封鎖されてしまう国境や空港や港湾を目にした。60歳未満の男性がロシアと戦うべく招集を受ける姿を目にした。預金や個人資産が瞬時に凍結され、引き出しもままならないということを目にした。国家は、国際政治においては依然として最強のプレイヤーだった。
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source : 文藝春秋 2022年6月号